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松井聰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

松井 聰(まつい さとし、1915年3月12日[1][2] - 1995年8月1日[2])は、日本のバスケットボール選手、指導者。

1936年のベルリンオリンピック日本代表。福井県福井市出身[1][2]。176cm[1]

経歴

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1915年、福井県福井市に生まれる。府立五中成城高校を経て、京都帝国大学経済学部に進学する[2]。高校の途中まではサッカーの選手だったが、16歳でバスケを始め、3年の秋には日本代表に選出された[1]

京大在学中は籠球部に所属し、大学3年時の1936年にはベルリンオリンピックに出場した[1][3]

大学卒業後は神戸学士クラブに所属し、高校、大学、社会人のすべてで全国制覇を経験した[1]

現役引退後は日本バスケットボール協会の理事や副会長を務めたほか、1979年夏季ユニバーシアードの団長や日本オリンピック委員会の委員等を歴任した[1][2][4]

1995年死去、享年80歳。

出典

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  1. ^ a b c d e f g バスケットボールに伝説を残した偉人たち”. バスケット・スタイル・インフォ. 2013年2月12日閲覧。
  2. ^ a b c d e 『日外アソシエーツwhoplus』「松井 聡(日本バスケットボール協会副会長)」の項
  3. ^ 『東京朝日新聞』1936年4月14日東京朝刊4頁「オリムピックへ篭球代表決る 正選手12」
  4. ^ 『朝日新聞』1979年4月26日東京朝刊18頁「ユニバーシアード選手団長に松井氏」

外部リンク

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