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楊井武盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
楊井武盛
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正12年4月17日1584年5月26日
改名 楊井万寿(幼名)→楊井武盛
別名 通称:弥七(彌七)
官位 右京亮但馬守
主君 大内義隆義長毛利隆元輝元
氏族 楊井氏
父母 父:楊井国久
養父:楊井春盛
兄弟 男子、武盛
虎女楊井春俊室?)
養子:春俊?
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楊井 武盛(やない たけもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大内氏毛利氏の家臣。父は楊井国久で、伯父である楊井春盛の養子となる。また、医術にも長けていた。

生涯

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大内氏家臣時代

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周防国玖珂郡楊井[注釈 1]国人大内氏に仕えた楊井国久の次男として生まれる[1]幼名は「万寿」[1]

天文7年(1538年6月7日、伯父の楊井春盛は嫡男が不義不孝の者であったために廃嫡し[1]、甥にあたる武盛を養子として家督長門国美祢郡秋吉別府[注釈 2]の内の30石の所領を譲る事を記した目安状を提出し[2]、同年9月17日、武盛の所領相続が大内義隆に認められた[3]

天文13年(1544年11月15日、大内義隆の加冠状を受けて元服し、義隆のみなし偏諱である「武」の字を与えられて、「武盛」と名乗った[1][4]。義隆の代では侍大将先手衆に列した[1]

天文20年(1551年)8月に陶隆房(後の陶晴賢)らが謀反を起こした大寧寺の変によって大内義隆が自害したことで大内義長大内氏を継ぐと、武盛も大内義長に仕えて小座敷衆となり[1]、天文23年(1554年)以前の7月22日内藤興盛仁保隆慰から所領を安堵される[2]

毛利氏家臣時代

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弘治元年(1555年)から毛利元就による防長経略が始まると実父・国久と共に毛利氏に服属し、弘治3年(1557年8月17日には毛利氏の五奉行である赤川元保粟屋元親児玉就忠国司元相桂元忠と大内氏から毛利氏に服属した奉行人である大庭賢兼河屋隆通波多野興滋岩正興致小原隆言吉田興種仁保隆慰によって、養父の春盛から相続した長門国美祢郡秋吉別府の内の30石の所領を安堵される[5][6][7]

永禄8年(1565年)、毛利輝元の元服を祝して太刀一腰と青銅100疋を贈っている[8]

元亀3年(1572年2月10日、娘の虎女に長門国美祢郡秋吉別府の内の30石の所領を譲ることを毛利輝元に認められた[9]

天正8年(1580年12月18日、武盛が暫く引き受けていた備前国天城城における在番の交替が延引し、数日逗留することになっている事について、毛利輝元は粟屋元種を使者として、武盛の辛労をねぎらう書状を武盛に送っている[10]

天正10年(1582年12月15日、毛利輝元から「但馬守」の受領名を与えられる[11]

天正12年(1584年4月17日に死去[12]

逸話

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  • 実父の楊井国久が薬や医術に長けていたことから、武盛も医術をよくしたとされ[1]吉川元春が病気になった際に小早川隆景が毛利隆元に宛てた書状には「薬師の事は、とかく楊井然るべく候」と記されている[13]。また、永禄5年(1562年)にも吉川元春が病気になった際にも毛利元就の書状において薬についての話で「楊井」を呼び寄せている[14]
  • 年不詳6月28日付けで小早川隆景から「近頃は音沙汰が無かったが、少し相談したいことがあるので武盛に来てもらい面会できれば祝着である」という旨の書状を受け取っている[15]

脚注

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注釈

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  1. ^ 現在の山口県柳井市柳井
  2. ^ 現在の山口県美祢市秋芳町秋吉

出典

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  1. ^ a b c d e f g 大内氏実録 1974, p. 314.
  2. ^ a b 『閥閲録』巻106「楊井神平」第16号、年不詳7月22日付け、楊井彌七宛て(仁保)隆慰・(内藤)興盛連署状。
  3. ^ 『閥閲録』巻106「楊井神平」第14号、天文7年(1538年)9月17日付け、大内義隆判物。
  4. ^ 『閥閲録』巻106「楊井神平」第15号、天文13年(1544年)11月15日付け、楊井彌七(武盛)宛て大内義隆加冠状。
  5. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 259.
  6. ^ 『閥閲録』巻106「楊井神平」第6号、弘治3年(1557年)8月17日付け、毛利隆元判物。
  7. ^ 『閥閲録』巻106「楊井神平」第7号、弘治3年(1557年)8月17日付け、楊井彌七(武盛)宛て左京亮(赤川元保)、圖書允(大庭賢兼)、因幡守(河屋隆通)、大和守(波多野興滋)、伊豆守(岩正興致)、安藝守(小原隆言)、若狭守(吉田興種)、右衛門大夫(仁保隆慰)、右京亮(粟屋元親)、右衛門尉(児玉就忠)、右京亮(国司元相)、左衛門大夫(桂元忠)連署奉書。
  8. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 500.
  9. ^ 『閥閲録』巻106「楊井神平」第11号、元亀3年(1572年)2月10日付け、虎女宛て毛利輝元袖判(楊井)武盛譲状
  10. ^ 『閥閲録』巻106「楊井神平」第4号、天正8年(1580年)比定12月18日付け、楊井彌七(武盛)宛て毛利輝元書状。
  11. ^ 『閥閲録』巻106「楊井神平」第8号、天正10年(1582年)12月15日付け、楊井右京亮(武盛)宛て毛利輝元判物。
  12. ^ 『閥閲録』巻106「楊井神平」家譜。
  13. ^ 『毛利家文書』第817号、年不詳6月1日付け、(毛利)隆元宛て(小早川)又四郎隆景自筆書状。
  14. ^ 『毛利家文書』第479号、永禄5年(1562年)比定、尾崎局宛て(毛利)元就自筆書状。
  15. ^ 『閥閲録』巻106「楊井神平」第2号、年不詳6月28日付け、楊井彌七(武盛)宛て小早川隆景書状。

参考文献

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  • 近藤清石『大内氏実録』マツノ書店、1974年1月。全国書誌番号:73006764 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利元就卿伝』マツノ書店、1984年11月。 
  • 萩藩閥閲録』巻106「楊井神平」