植原繁市
植原 繁市 (うえはら しげいち) | |
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誕生 |
1908年3月13日 日本・兵庫県印南郡志方町 |
死没 |
1971年3月20日(63歳没) 日本・兵庫県加古川市志方町 |
職業 | 詩人 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 姫路商業高校退学 |
ジャンル | 詩、作詞 |
代表作 | 『花と流星』 |
ウィキポータル 文学 |
植原 繁市(うえはら しげいち、1908年(明治41年)3月13日 - 1971年(昭和46年)3月20日[脚注 1])は、兵庫県印南郡(現兵庫県加古川市)に在住した詩人[1]。
経歴
[編集]明治41年、兵庫県印南郡志方町に、父弥平、母いとの六男として生まれる[2][3]。幼少より体が弱く、西志方尋常高等小学校6年生の際には胃下垂で休学留級し、姫路商業学校でも胃腸疾患のため2年で退学している[2][3]。1933年(昭和8年)より西志方村役場(後に合併により志方町役場)に就職し、後には収入役をつとめた[3]。
1926年(大正15年)、「文章倶楽部」上で短唱3篇が、生田春月により選ばれ3位入選[4][5][3]。以後生田春月、西条八十を範として、八十主宰の『愛誦』に投稿を続け、後には寄稿家に推薦された[2][4][5]。地方同人誌への詩、民謡、小曲などの発表や、神戸新聞への童話の投稿などの活動もこの頃である[2]。同郷の盟友として、大塚徹、八木好美、金近敏寛らと生涯親しく交わり[2]、1931年(昭和6年)8月31日『姫路愛誦読書会』を開く[6]、1946年(昭和21年)1月『新涛社』を立ち上げるなど[7]、たびたび活動を共にした。『愛誦』の廃刊後は、横山青娥創刊の詩誌『昭和詩人』に参加し、またその頃叙情詩集『花と流星』を刊行した[2]。
1964年(昭和39年)、体調優れず志方町役場を退職、以後しばらく六甲商会に勤務した[2]。この頃植原枝月と号し、俳人としても俳誌「七曜」や「志方番茶くらぶ」を中心に活躍[4][5][8][2]。加古川市制施行二十周年にあたり「新加古川音頭」を作詞し、1970年(昭和45年)4月レコードを発行した[1][9]。1971年3月20日[脚注 1]、加古川市志方町の自宅にて死去[8]。
年譜
[編集]- 1908年(明治41年)3月13日:兵庫県印南郡志方町横大路に生まれる。
- 1914年(大正3年)4月:西志方尋常高等小学校入学。6年在学時に胃下垂により留級。
- 1921年(大正10年)4月:高等科入学。
- 1922年(大正11年)4月:姫路商業学校入学。胃腸疾患のため2年で中退。
- 1926年(大正15年):新潮社「文章倶楽部」において、生田春月の選により3位入選。以後、『愛誦』を中心に活動。
- 1931年(昭和6年)8月31日:大塚徹らとともに『姫路愛誦読書会』を開く。
- 1932年(昭和7年)11月19日:りつ夫人と結婚。
- 1933年(昭和8年):西志方村役場に勤務。
- 1934年(昭和9年)
- この頃、『愛誦』廃刊により、活動場所を『昭和詩人』に移す。
- 7月:神戸詩人協会より、叙情詩集『花と流星』を出版。
- 1946年(昭和21年)1月:大塚徹らとともに「新涛社」立ち上げ。
- 1954年(昭和29年):町村合併に伴い、志方町役場に収入役として勤務。
- 1964年(昭和39年)
- 3月:志方町役場を退職。以後しばらく六甲商会に勤務。
- 5月:長楽寺に詩碑建立。
- 1970年(昭和45年)4月:作詞した「新加古川音頭」のレコード発行。加古川市制施行二十周年記念。
- 1971年(昭和46年)3月20日:死去。
作風
[編集]- 横山青娥により、「性来の抒情詩人として、小品的な作品に言ひ知れぬ妙味を見せてゐる。哀歓の交錯は縞目を作つて、あやしい魅惑の手を投げかける。その作風は明るく軽快である。そして表現も整つてゐる...』と評され、同郷の大塚徹の作風と正反対だと述べられている(昭和7年(1932年) 1月 『愛誦』)[10]。
- 高橋夏男により、『詩集題名が示すように、わずらわしい現実生活に一線を画して、ロマン的抒情世界を感受性豊かに歌い上げるものであり、その感覚とイメージの新しさは近代叙情詩にあざやかな彩りを加えた』と評された[4][5]。
顕彰
[編集]- 1963年(昭和38年)7月、雑誌「高砂文学」は詩人植原繁市特集号を発刊[11]。
- 1964年(昭和39年)5月、志方町役場退職を記念して、同町の長楽寺境内に、繁市の昭和4年の小曲「寂しさ」の一節を刻んだ詩碑が建立された[12][8][11]。発起は志方番茶くらぶ、書は久留宮青蔦子による[11]。この詩碑は、2011年9月4日、加古川を襲った台風12号による土砂災害で長楽寺が甚大な被害を受けた際、行方がわからなくなっていたが[13]、11ヶ月を経た2012年8月、土砂の中から再発見され[4]、再設置されたという。
- 1969年(昭和44年)頃、大塚徹、八木好美と三人集を上梓する計画があった[14]。その準備が進んでいたところに、繁市の急逝にあったという[14]。そこでまず繁市の遺稿集を発行する事が当面の目標に変更され、金近敏寛、松本重雄等も尽力し、1972年、志方番茶くらぶより出版した[14][8]。繁市の遺書には、『全ての遺稿を姫路城の石垣の下に埋めてほしい』とあったが、友情がそれをさせなかったという[8]。
- 1970年代後半、同郷加古川の若き詩人高橋夏男に再発見再評価され、評伝が「花と流星の詩人」のタイトルで『姫路文学人会議』に連載された[15]。
主な作品
[編集]- 小曲
- 「寂しさ」 - 長楽寺歌碑に刻まれた代表作。1929年(昭和4年)「愛誦」5月号に発表、横山青娥本欄に推薦[16]。「花と流星」の最後に据えられ、また1963年(昭和38年)1月の大塚徹の詩碑建立にあたっても、祝詞に「われいたつきの『寂しさ』を // ひとり杜にきて // しみじみと樹をゆすり // 君に応えき。」と述べるなど、繁市のもっとも愛した作品の1つであったという[17]。
- 歌謡
著作
[編集]- 詩集(単著)
- 遺作集
- 植原繁市 著、番茶くらぶ編集部 編『植原繁市遺稿集』植原繁市遺稿集刊行会、1972年。兵庫県立図書館蔵
- 植原繁市 著、高橋夏男 編『植原繁市作品集 [1]』私家版、1991年。兵庫県立図書館蔵
- 植原繁市 著、高橋夏男 編『植原繁市作品集 [2]』私家版、1993年。兵庫県立図書館蔵
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b 花と流星の詩人.
- ^ a b c d e f g h 植原繁市遺稿集, p. 142.
- ^ a b c d 花と流星の詩人, p. 147.
- ^ a b c d e 谷の長楽寺通信 2012-08-07.
- ^ a b c d 長楽寺案内冊子、高橋夏男による紹介文
- ^ 大塚徹・あき詩集, p. 253.
- ^ 大塚徹・あき詩集, p. 255.
- ^ a b c d e 大塚徹・あき詩集, p. 257.
- ^ 山本丈晴の音楽作品
- ^ 風紋, p. 112.
- ^ a b c 志方町誌, p. 544.
- ^ 広報かこがわ.
- ^ 谷の長楽寺通信 2011-11-02.
- ^ a b c 花と獏と, p. 196.
- ^ たゆらぎ山に鷺群れて, pp. 307–308.
- ^ 植原繁市遺稿集, p. 145.
- ^ 植原繁市遺稿集, p. 143.
参考文献
[編集]- 志方町誌編纂委員会 編『志方町誌』兵庫県印南郡志方町、1969年。
- 高橋夏男『花と流星の詩人―植原繁市 人と作品』私家版、1982年。全国書誌番号:84002991。
- 市川宏三『たゆらぎ山に鷺群れて: 播磨の文化運動物語』北星社、2007年。ISBN 9784939145094。
- 大塚徹、八木好美『詩集 花と獏と』深苑社、1974年。
- 大塚徹、大塚あき 著、八木好美 編『大塚徹・あき詩集』培養社、1977年。
- “広報かこがわ 2010年8月号”. 加古川市役所 (2010年8月). 2016年5月18日閲覧。
- 横山青娥『第四自選集 風紋』塔影書房、1971年。全国書誌番号:75007050。
- “ご報告”. 谷の長楽寺通信~復興の日々~ (2011年11月2日). 2016年5月18日閲覧。
- “植原繁市氏の詩碑が出てきました”. 谷の長楽寺通信~復興の日々~ (2012年8月7日). 2016年5月18日閲覧。