森田隆朝
森田 隆朝 もりた たかとも | |
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生年月日 | 1925年9月28日 |
出生地 | 鳥取県日南郡日南町 |
没年月日 | 2007年5月13日(81歳没) |
死没地 | 鳥取県米子市 |
出身校 |
米子医大 (現在の鳥取大学医学部) |
前職 | 医師 |
米子市長 | |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1991年 - 2003年 |
森田 隆朝(もりた たかとも、1925年(大正14年)9月28日[1] - 2007年(平成19年)5月13日[1])は、日本の医師、政治家。産婦人科森田医院院長[2]。鳥取県医師会常任理事[2]。鳥大医学部同窓会名誉会長[2]。日本・ネパール人づくり協力会会長[2]。日野郡人会会長[2]。米子市長。
経歴
[編集]1925年9月、奥日野の禅寺で生まれた[2]。その年の暮れ近く、一家は大脱走し、境港へ転住した[2]。父はたく鉢に回ったり、講演に歩いたりして喜捨をこい、その金で託児所を開き、女仲仕の背でぐずる子を預かって面倒をみていた[2]。社会事業のはしりである[2]。
昭和18年(1943年)県立米子中学校(現在の米子東高校)卒[3]。昭和29年(1954年)国立米子医科大学卒[3]。母校の産婦人科教室に入局[4]。
昭和35年(1960年)森田医院を開業[3]。その後、鳥取県教育委員長を務めた[5]。
平成3年(1991年)米子市長に当選。平成15年(2003年)までの3期12年務める[5]。
平成19年(2007年)5月13日急性心不全のため米子市の病院で死去、81歳。[6]
人物像
[編集]学生時代
[編集]北京工専の学生時代は不らちの限りを尽くし、無法松とあだ名されて得意がっていた[7]。2年生の秋、京大出の現役将校をぶん殴り、無期停学をくらった[8]。
交流
[編集]森田は、昭和33年(1958年)兵庫県村岡町の診療所に出張した[4]。そこで消防団長をしていた谷洋一と親しくなった[4]。森田によれば、「昭和三十三年、兵庫県村岡町の診療所に出張した。杜氏の里で、酒と牛と女のうまい所である。そこで消防団長をしていた谷洋一君とネンゴロになった。彼はその後、町長、県議を経て今は四選目の国会議員である。」という[4]。
人柄・性格
[編集]座右の銘は“当たって砕けろ”[3]。尊敬する人は今村均[3]。
賞
[編集]家族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、325頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『私の交遊抄(中)』 編集 - 朝日新聞鳥取支局、1989年 262頁
- ^ a b c d e f g h 『鳥取県人名録』 608頁
- ^ a b c d 『私の交遊抄(中)』 編集 - 朝日新聞鳥取支局、1989年 267頁
- ^ a b 『新訂 現代政治家人名事典 : 中央・地方の政治家4000人』 540頁
- ^ 元米子市長 森田隆朝氏死去
- ^ 『私の交遊抄(中)』 編集 - 朝日新聞鳥取支局、1989年 265頁
- ^ 『私の交遊抄(中)』 編集 - 朝日新聞鳥取支局、1989年 266頁
- ^ 『私の交遊抄(中)』 編集 - 朝日新聞鳥取支局、1989年 269頁
参考文献
[編集]- 『鳥取県人名録』(企画・編集 鳥取県人名録刊行委員会 旬刊政経レポート、1987年 608頁)
- 編集 - 朝日新聞鳥取支局 『私の交遊抄(中)』 1989年 262-269頁
関連
[編集]外部リンク
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