森川六右衛門
11代 森川 六右衛門(もりかわ ろくうえもん、1854年10月12日(安政元年8月21日[1])- 1905年(明治38年)10月15日[2][3])は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・卯之助、六太郎。号・顕堂[3]。
経歴
[編集]伊賀国阿拝郡上野福居町(三重県[2]阿拝郡上野町[1]福居町、阿山郡上野町、上野市を経て現伊賀市)で、商業、10代・森川六右衛門(顕斎)、欽子の息子として生まれる[1]。熊田二爻に学び、さらに猪飼箕山(猪飼敬所の子)、富士林東峡、速水謙堂、山中房之助などにつき和漢学を修めた[1]。津藩武術指南役・太田小源太、橋本佐源太らにつき剣術砲術を修めた[1]。
1869年(明治2年)津藩から米問屋役を命じられた[1]。1873年(明治6年)私塾を開いて漢学、数学を伝授した[1][2]。1875年(明治8年)家督を相続し六右衛門を襲名した[1]。同年、養蚕引立会社、製糸会社を組織し、桑園の拡大を図り、製紙機械・機織機の導入を行い、養蚕・製糸業の振興に尽力した[1]。1879年(明治12年)福居町会議員、連合町村会議員に就任[1][2][4][5]。1880年(明治13年)阿拝郡会議員となり同議長に就任[1][2][4][5]。また三重県会議員(1880年-1898年)にも選出され、同常置委員、同副議長も務めた[1][2][3][4][5]。
また、大和街道の改修、伊賀街道の改良、上野中学校(現三重県立上野高等学校)の開設など、公共事業に私財を投じてその推進に尽力した[1][3]。
1898年(明治31年)8月、第6回衆議院議員総選挙(三重県第6区、憲政本党)で当選し[3][6]、その後、三四倶楽部に所属して衆議院議員に1期在任した[2][4]。
実業界では、上野銀行取締役、東海製糸取締役、上野米穀取引所理事長、伊賀商業銀行頭取などを務めた[2][4][5]。
国政選挙歴
[編集]- 第3回衆議院議員総選挙(三重県第1区、1894年3月、立憲改進党)次点落選[7]
- 第4回衆議院議員総選挙(三重県第1区、1894年9月、無所属)落選[8]
- 第5回衆議院議員総選挙(三重県第6区、1898年3月、進歩党)次点落選[6]
- 第6回衆議院議員総選挙(三重県第6区、1898年8月、憲政本党)当選[6]
- 第7回衆議院議員総選挙(三重県郡部、1902年8月、無所属)落選[9]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m 『明治忠孝節義伝: 一名・東洋立志編 第3輯』202-205頁。
- ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』653頁。
- ^ a b c d e 『三重先賢伝 続』278頁。
- ^ a b c d e 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』458頁。
- ^ a b c d 『日本政治史に残る三重県選出国会議員』54頁。
- ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』85頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』24頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』84頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』14頁。
参考文献
[編集]- 杉本勝二郎『明治忠孝節義伝 : 一名・東洋立志編 第3輯』国之礎社、1898年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 浅野松洞『三重先賢伝 続』別所書店、1933年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 廣新二『日本政治史に残る三重県選出国会議員』廣新二、1985年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。