猪飼敬所
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猪飼 敬所(いかい(いがい) けいしょ、宝暦11年3月22日(1761年4月26日) - 弘化2年11月10日(1845年12月8日))は、日本の江戸時代後期の折衷学派の儒学者。名は彦博(よしひろ)、字は文卿、希文。近江国出身。京都儒学の代表者といわれる[1]。
人物
[編集]経書や史書など、各種書物に詳しく、大和の儒学者谷三山の質問数十条にも答えたように、たいへん博識であった。中でも経書、特に三礼に精通していた[2]。著作に「論孟考文」「管子補正」などがある。
初めは石田梅岩の心学に傾倒して手島堵庵に師事するが、天明3年(1783年)に儒学を志して巌垣竜渓の門下に入る。京都、淡路洲本、但馬豊岡など各地で講説。天保2年(1831年)伊勢津藩主藤堂高猷に招かれて津藩儒となる。天保3年(1832年)9月8日、伊勢の津へ行くに際し挨拶のため頼山陽を訪れたが、山陽が瀕死の床にあるとは知らず、歴史を論じて北朝正統論を強く主張し、「今の朝廷は北朝の系統であるから、君は北朝の臣ではないか」といって山陽の怒りを買った。しかし、敬所は自説を曲げなかった。山陽は、9日後の9月17日にこの論争について篠崎小竹に語り、その6日後に没した。
天保9年(1838年)、藩主や門人の願いにより、京都から津に移住。晩年は両目を失明したが、それでも藩主に対し講義を続けた[2]。弘化2年(1845年)11月10日死去、享年85。
現在、津市立西橋内中学校の北隣にある龍津寺の門前に、猪飼敬所先生墓所と刻んだ石柱が建っている。
著書
[編集]- 『猪飼敬所遺著』
- 『敗鼓録』
- 『神山元策四礼答』
- 『儀礼礼節改正図』
- 『文公家礼儀節正誤』
- 『名典二詮考』
- 『北辰考』
- 『雑抄』
- 『乙卯雑抄』
- 『管豹録』
- 『逸史糾繆』
- 『三餘漫筆』
- 『春秋左伝補註』
- 『崇倹録』
- 『論孟考文』
- 『管子補正』
- 『荀子』(共著)
- 『論語集説』
- 『葛原詩話標記』
- 『讀禮肆考』
- 『深衣考』
- 『凶服考』
- 『寢廟堂室考』
- 『周量考』