森岡栄治
個人情報 | |||||||||
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生誕名 | 森岡 栄治 | ||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||
生誕 | 1946年6月8日[1] 大阪府大阪市[2] | ||||||||
死去 | 2004年11月9日(58歳没)[2] 兵庫県川西市[2] | ||||||||
身長 | 165 cm (5 ft 5 in)[1] | ||||||||
体重 | 54 kg (119 lb)[1] | ||||||||
スポーツ | |||||||||
競技 | 男子 ボクシング | ||||||||
階級 | バンタム級[2] | ||||||||
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基本情報 | |
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本名 | 同じ |
階級 | バンタム級 |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1946年6月8日 |
出身地 | 大阪府大阪市 |
死没日 | 2004年11月9日(58歳没) |
死没地 | 兵庫県川西市 |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 11 |
勝ち | 7 |
敗け | 4 |
森岡 栄治(もりおか えいじ、男性、1946年6月8日 - 2004年11月9日)は、日本のプロボクサー。大阪府大阪市大正区出身。1968年メキシコシティーオリンピックボクシングバンタム級の銅メダリスト。
来歴
[編集]大阪浪商高(現大体大浪商高)3年時にインターハイバンタム級優勝。近畿大学商学部進学後も1965年から全日本選手権4連覇を達成。1968年メキシコシティオリンピックで銅メダルを獲得[3]。決勝進出を阻んだのは不可解な判定であったが、会場がブーイングを続けたことに対し、森岡は「メキシコの人たちが、あれだけ騒いでくれたことがうれしい」と言い残している[4]。アマチュア戦績138戦128勝72KO・RSC10敗。
大学卒業後、東京の高橋ジムからプロデビューし日本バンタム級王者内山真太郎に挑むなどしたが結果を残せず、右目網膜剥離のため25歳で競技引退。プロ戦績11戦7勝4敗。1978年、大阪玉造に森岡ボクシングジムを設立し指導者となる。その後、天六、天満橋、池田市と移転し、2002年に現在の川西市、一の鳥居駅前に移る。
1998年から3年間、西日本ボクシング協会会長を務め、近畿大学体育会ボクシング部OB会会長も歴任した。2004年に食道癌により死去。享年58。ジムは同OBで長男の和則が引き継ぎ、エイジスポーツクラブにて森岡ボクシングジムを運営、愛称ブロンズチーム。2013年にカザフスタンで開催されたアジアジュニア選手権では5名の日本人が銅メダリストとなったが[5]、このうち2選手が同ジムで練習している[6]。
甥の脚本家森岡利行により、森岡栄治の実伝を元にした『子猫の涙』(旧題:路地裏の優しい猫)が、第3回日本映画エンジェル大賞受賞。武田真治主演で映画化された。
脚注
[編集]- ^ a b c “森岡栄治”. Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年9月25日閲覧。
- ^ a b c d 共同通信 (2004年11月10日). “森岡栄治氏死去 ボクシング銅メダリスト”. 47NEWS. 2012年8月3日閲覧。
- ^ “レスリングのオリンピック日本人男子メダリストを紹介、偉大な功績を残した3選手”. 【SPAIA】スパイア (2020年5月4日). 2020年11月14日閲覧。
- ^ “「あれだけ騒いでくれたのがうれしい」オリンピック名言集 選手編 - 北京オリンピック”. 日刊スポーツ (2008年). 2012年8月3日閲覧。
- ^ “Newsletter April 2013”. ASBC(アジアボクシング連盟) (2013年4月). 2013年5月22日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 幾島健太郎 (2013年5月22日). “ボクシング: メダル獲得を報告 アジアジュニア出場の2人、川西市長に/兵庫”. 毎日新聞. 2013年5月22日閲覧。[リンク切れ]