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桂萬光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

桂 萬光(かつら まんこう)は、上方落語名跡。現在は空き名跡となっている。

結三柏は、桂文枝一門の定紋である。

以下の各代以外にも、7代目桂文治2代目桂文團治)の門下で、東京の2代目桂小文治の弟分だった噺家がいて、桂米丸の後に萬光を襲名したが、間もなく死亡したため、現在は米丸としても萬光としても代数には数えられていない。

初代

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初代 桂萬光生没年不詳)は、本名、享年とも不詳。

2代目桂文枝(後の桂文左衛門)の桂南光時代の最初の師匠と言われる。その他の詳細不明。

2代目

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2代目 かつら 萬光まんこう
本名 上村 龜之助
生年月日 1841年
没年月日 1905年4月22日
出身地 日本の旗 日本大阪
師匠 2代目月亭文都
2代目桂文枝
弟子 笑福亭圓歌
名跡 都治
2代目桂萬光
活動期間 1876年 - 1905年
活動内容 幇間
上方落語
茶屋噺
所属 桂派
主な作品
一休

2代目 桂萬光1841年 - 1905年4月21日)は、本名: 上村 龜之助。享年65。

大阪市中央区安堂寺町生まれ。刀屋の堀江與助の次男。明治維新廃刀令により生家が廃業となったため、元来芸事が好きで北新地幇間となり、九八を名乗る。1876年に36歳という中年で2代目月亭文都の門下となり都治。1884年ころに2代目桂文枝門下に移り、2代目萬光を襲名。

幇間出身であったためか、茶屋噺を得意とし、『せむし茶屋(卯の日参り)』『死人茶屋』『桜の宮』などが十八番で、他にも『一休』をよくやっていた。中年から遅さき入門で名声は高くなかったものの、桂派の重鎮として活躍した。小柄で喘息持ちでゴロゴロと鳴らしながらの落語だったが、芸の力はそれを感じさせず、得意の演目は何度聞いても爆笑させるほどの実力の持ち主だったという。4代目桂米團治は、この2代目萬光を崇拝しており、若いころは咳の仕方まで真似ていた。また、趣味で鴬を飼っていたという。

1905年4月6日法善寺金沢亭と新町瓢亭での『一休』が最後の高座となった。

弟子には笑福亭圓歌がいる。

3代目

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3代目 かつら 萬光まんこう
本名 伊豆 徳松
別名 「台湾金魚」
生年月日 1873年
没年月日 1917年11月22日
出身地 日本の旗 日本
師匠 初代桂枝雀
弟子 桂萬十(後の林家染蔵
名跡 桂雀之助
3代目桂萬光
活動期間 ? - 1917年
活動内容 上方落語
家族 桂雀四郎(兄)
雀三郎(後に2代目桂小文枝)(弟)
所属 桂派
寿々女会
主な作品
せむし茶屋
一休

3代目 桂萬光1873年 - 1917年11月22日)は、本名: 伊豆 徳松。享年44。法名: 釋行徳。

兄弟三人揃っての落語好きに生まれ、播重席で開かれる素人落語に揃って出演していた。後に3人とも初代桂枝雀の門下になり、長男は雀四郎(大成せず)、自身は雀之助、弟は雀三郎(後に2代目桂小文枝)を揃って名乗った。1912年5月に3代目萬光を襲名。同年、寿々女会が結成された時、師・枝雀と行動を共にするが、後、三友派に移る。

目が大きかったため「台湾金魚」とあだ名された。非常に稽古熱心で、先輩や後輩への気配りも欠かさなかったため、同業者からの信頼は厚かった。持ちネタも豊富で、そつはなかったが、舞台度胸に欠けるきらいがあったため、器用貧乏に終わり、贔屓客も付かず、年中貧乏暮らしだったという。

大柄で女性に人気のあった弟の小文枝とは、全てにおいて対照的で、香盤の順位も遂に弟を抜くことができず、芸人としては不遇であった。ただネタ数は多く、2代目譲りの『せむし茶屋(卯の日参り)』『一休』などを十八番としていた。また大きな目を生かした顔芸や四つ竹などの珍芸・余芸も売りであった。

SPレコードには、『まんじゅうこわい』を構成し直した『饅頭喰ひ』と、『正月丁稚』が残されている。

弟子には桂萬十(後の林家染蔵)がいる。

出典

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  • 『落語系圖』(月亭春松編)
  • 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
  • 『上方はなし』第26集「近世落語家伝」7(4代目桂米團治著)
  • 『続・上方落語ノート』(桂米朝著、青蛙房、1989年)p79-81 - 7代目文治門下の萬光について。
  • 『古今東西噺家紳士録』