桂派
桂派(かつらは)は、明治から昭和初期まで存在した上方落語の諸派。
歴史
[編集]桂一門の総領名跡である「桂文治」の3代目を継承した2代目文治の義兄(2代目三笑亭可楽門下。のちの初代桂文楽)の江戸下向後、上方では2代目文治の孫弟子を3代目とした。この結果3代目、4代目と東西に文治名跡が並立したが、4代目文治の弟子である初代桂文枝は文治を継がず、以来上方においては「桂文枝」が桂一門を代表する名跡となっていた。
1874年(明治7年)4月3日の初代文枝死後、2代目文枝の襲名を巡り、「四天王」と呼ばれた初代の門弟、特に当時の人気落語家だった桂文三と2代目桂文都の間で争いが起きた。この紛糾は文三の勝利で終わり、文三は2代目文枝として一門を統率することになる。これが「桂派」である。
桂派の多くの落語家は素噺(手拭い・扇子以外の道具を使わない落語)が主で、東京から移住した5代目翁家さん馬や2代目三遊亭圓馬の影響もあり、人情噺も得意としていた。定席としては、大阪市ミナミ法善寺周辺の「南地金沢亭」を本拠とし、他にも大阪市内では船場淡路町の「幾代亭」、西区新町の「瓢亭」、市外では岸和田市大工町の「林家亭」などを拠点にした。
明治30年代の「藤明派」「互楽派」分派を経て、1906年(明治39年)、対立する「浪花三友派」を仕切っていた堀江「賑江亭」席亭の藤原重助が死去したことにより桂派は三友派と和解、「桂・三友両派大合同興行」を行った。しかし1910年(明治43年)、上本町「富貴席」席亭の岡田政太郎が二流の落語家や色物(軽口、物まね、剣舞、曲芸、義太夫、女講談等)を中心として「浪花落語反対派」を興したことや、同しく1910年に一派の総帥だった3代目文枝が他界したことで衰退した。一部は4代目笑福亭松鶴らと「寿々女会」を結成するが長くは続かず、1915年(大正4年)までに三友派に吸収・消滅していった。
結成当時は10名ほどだったが、明治20年ごろには20名を超え、解散直後で江戸の落語家や門下を超えて30名前後ほどいた。
京都にも落語会を開き、その時は「京桂派」とした。
その他諸派
[編集]江戸
[編集]上方
[編集]- 藤明派
- 寿々女会
- 浪花派
- 大八会
- 大正時代宮崎八十八が中心に結成。万歳師や漫談家が所属。ミスワカナ・玉松一郎や花月亭九里丸(九里丸は後に反対派に所属)
- 大正派
- 大正元年に初代桂枝雀が設立。
- 圓頂派
脚注
[編集]出典
[編集]- 『落語と私』桂米朝(文藝春秋〈文庫〉、1986年(昭和61年)、ISBN 4-16-741301-9)
- 『図説 落語の歴史』山本進(河出書房新社、2006年(平成18年)、ISBN 4-309-76079-1)
- 放課後ホンネの日本史 (PDF) - なにわの近現代史Ⅱ