林家染丸
林家 染丸(はやしや そめまる)は、上方落語の名跡であり、現在は上方林家の事実上の止め名。当代は四代目。初代・二代目と卯年の生まれであったため、代々うさぎ(ぬの字うさぎ)を定紋としている。
- 初代林家染丸(天保・弘化時代 - 1877年?) - 明治中期に活躍した。初代林家菊丸門下。染物職人であったことから染丸を名乗り、手が染料で染まったまま高座に上がっていたという。滑稽噺、人情噺、音曲いずれにも長け、兄弟弟子の二代目林家菊丸と合作した大津絵節が残されている。1874年頃に「浅尾新七」となるが1875年頃に染丸に戻って1877年?に没したという。没後追善興行が行なわれ、石碑が建てられた。本名、享年とも不詳。
- 代外(二代目)林家染丸 - 後∶三代目桂文三
- 四代目林家染丸 - 当該項目にて記述
2代目
[編集]2代目 | |
本名 | 岡本 仁三郎 |
---|---|
生年月日 | 1867年1月8日 |
没年月日 | 1952年11月11日(85歳没) |
出身地 | 日本・堺市 |
師匠 | 3代目笑福亭松鶴 |
弟子 | 林家染之助 林家染三 林家うさぎ 3代目林家染丸 3代目林家染語楼 2代目林家染之助 林家染蔵 林家染八 林家染團治 |
名跡 | 1. 笑福亭梅喬(1890年 - 1893年) 2. 5代目笑福亭松喬(1893年 - 1912年) 3. 2代目林家染丸(1912年 - 1952年) |
活動期間 | 1890年 - 1952年 |
活動内容 | 上方落語 |
家族 | 岡本美国太夫(実父) 2代目笑福亭小福(実子) |
所属 | 三友派 花月 |
主な作品 | |
「電話の散財」 | |
2代目 林家 染丸(1867年2月12日(慶応3年1月8日) - 1952年(昭和27年)11月11日)は、本名: 岡本仁三郎。 85歳没。
経歴
[編集]堺市生まれ。父は新内節の岡本美国太夫。左官職の傍ら、素人落語で花丸を名乗り活躍した。
1890年4月に、3代目笑福亭松鶴門下で梅喬を名乗り神戸湊亭で初舞台。1893年頃に5代目松喬を継ぐ。
後に3代目松鶴が講談師に転じ後ろ盾を失い三友派の端席などで苦労を重ねる、1910年にようやく一門幹部となり三友派の中心にまで出世した。しかし弟弟子の初代枝鶴との「松鶴」襲名争いに敗れ、2代目桂文團治の勧めにより、事実上一門を離れることとなる。
1912年5月、2代目染丸を襲名した。以降、上方林家は、6代目林家正楽の系統が絶えたこともあり、元来の林家正三の流れから、笑福亭の傍流となる。
三友派に属し花月合同後も吉本の大看板として重きをなしたが、1942年に吉本を離れ引退同然で「林染会」を組織し、高座にはあまり上がらず後進の指導に力を尽くした。戦後5代目松鶴の「上方落語を聞く会」などに出演したが声が縺れるようになり1947年9月の戎橋松竹杮落としの口上を最後に引退した。
人物
[編集]人格円満で、多くの人々に慕われた。夫人は1914年に結婚した寄席囃子界随一の存在であった林家とみ。息子は2代目笑福亭小福(初代笑福亭福松門下)。
正岡容が大阪に行ったとき、染丸が十八番の「堀川」をやっているときに、最後の猿回しの口上のところで、三味線を弾いていたとみの三味線の糸が切れ、お囃子が止まってしまい、楽屋に帰ってきて客席に聞こえるぐらい激怒したというエピソードがある。そのすぐ後に5代目橘家圓太郎が出たが、こちらはとみに丁寧にお囃子をお願いしたという。
十八番は「電話の散財」で2代目桂文之助の原作よりも改作し自分のものにした。その他にも「景清」「応挙の幽霊」「河豚鍋」「堀川」など、若手時代は本芸よりも余興の四つ竹で出ることが多かった。
法名は釋林染、辞世は「笑はせに来て笑はれた五十年」。墓所は大阪天王寺区一心寺。
弟子
[編集]3代目
[編集]3代目 | |
本名 | 大橋 駒次郎 |
---|---|
生年月日 | 1906年3月25日 |
没年月日 | 1968年6月15日(62歳没) |
出身地 | 日本 |
師匠 | 桂次郎坊 2代目林家染丸 |
弟子 | 4代目林家染丸 4代目林家小染 3代目林家染三 林家染奴 林家染和 |
名跡 | 1. 桂駒坊(時期不明) 2. 大橋亭駒坊(時期不明) 3. 林家染五郎(1932年 - ?) 4. 2代目林家染語楼(? - 1953年) 5. 3代目染丸(1953年 - 1968年) |
活動期間 | ? - 1968年 |
活動内容 | 上方落語 |
家族 | 竹本小七五三太夫(実父) |
所属 | 吉本興業 |
主な作品 | |
「堀川」「片袖」「猿後家」「太鼓腹」 「茶目八」「河豚鍋」「隣の桜」「借家怪談」 「寝床」「阿弥陀池」「莨の火」「淀五郎」 | |
備考 | |
上方落語協会初代会長(1957年 - 1968年) | |
3代目 林家 染丸(1906年3月25日 - 1968年6月15日)は、本名: 大橋駒次郎。あだ名は「おんびき」(ヒキガエルのこと)。62歳没。出囃子は『たぬき』。吉本興業所属。
父は義太夫の竹本小七五三太夫[1]。7、8歳頃には寄席小屋で落語を聴くようになる[1]。11歳の時、両親と死別し、親戚の帽子問屋の丁稚となる[1]。奉公先で商売を教わり、13歳の頃には一人で地方に出張に出されるほどとなる[1]。同じ頃、3代目桂文三門下の桂次郎坊に桂駒坊(または大橋亭駒坊)の名をもらい、素人落語研究会で活動する[1]。使い込みを働いて(放蕩のため)解雇されるが、直後に徴兵で陸軍歩兵第37連隊に入隊、やがて「落語上等兵」と呼ばれるようになる[1]。満期除隊に前後して叔母の養子となり、叔父の遺産を元手に帽子卸の店を開くも、放蕩により破産[1]。その後は消防署に勤務した[1]。
25歳の時、遊園地で開かれた新聞社主催の素人演芸コンクールで優勝し、優勝特典として落語をレコード(タイヘイレコード)に吹き込んだ[1]。それを聞いた2代目染丸から弟子入りの誘いがあり、1932年6月に正式に入門が許され染五郎(のちに柳家金語楼にあやかり2代目染語楼)を名乗る[1]。この頃は消防署勤務も続けながら勤務のない隔日で稽古に通い、2代目染丸の「林染会」に参加したり、結成した慰問団で余興に出たりするセミプロ状態であった[1]。
1944年中国戦線に出征し[1]、湖南省衡陽にて慰問団長となる。1946年7月に復員当初は慰問や5代目笑福亭松鶴の「上方落語を聴く会」に参加したものの、妻の実家のある埼玉県妻沼町に移住して落語から離れる[1]。妻沼で取れた芋を大阪で売って成功、続いて静岡県下賀茂温泉の塩を埼玉県や群馬県に運ぶ事業を手がけた[1]。1952年11月、師が没し一門の衰退に危惧した弟弟子の2代目小染(のちの3代目染語楼)と2代目桂春團治夫人・河本寿栄の尽力により芸界に復帰し、翌年の1953年8月、3代目染丸を戎橋松竹で襲名した。襲名は生前に2代目が遺書に認めており、落語家復帰を機に在住していた伊豆から大阪に戻った(生野区にあったたばこ店の権利を買った)[1]。
1957年4月、上方落語協会の創設に伴い初代会長に就任[2]。協会の創設は染丸が主導した[2]。5代目桂文枝によると、染丸が会長となったのは最年長だったことに加え、実業で稼いだ経験が豊富なため「あの人を会長にすればやっていけるんではないか」という理由からだったという[2][3]。毎日放送「素人名人会」の審査員を務め、えびす顔で「林家染丸でございます。本名を長谷川一夫ともうします。」と挨拶する愛嬌たっぷりの芸風でお茶の間の人気者ともなった。この頃は染丸のほかに協会幹事の4代目笑福亭枝鶴(のちの6代目笑福亭松鶴)・3代目桂米朝・3代目桂小文枝(のちの5代目桂文枝)・2代目桂福団治(のちの3代目桂春団治)の5人を合わせて「上方落語五人男」と称されたが、やがて染丸以外の4人が「上方落語の四天王」と呼ばれるようになる[4]。
実生活は謹厳そのもので、高座を降りると鬼のような形相となり、弟子たちは絶えず気を抜けなかった。上岡龍太郎は「染丸師匠ほど楽屋と舞台との顔の違う人も珍しかった」と述べている[5]。一方人情味に溢れ、弟子の染二(現4代目染丸)が風呂を沸かす際の不手際でガスが爆発して夫人が「こんなところで怪我したらかなわんやないか。あんたよその子やねんから」と口にしたところ、「よその子やあらへんがな。うちの子や!うちの子やさかい怪我したらあかんねや」と夫人を叱り、染二を感激させた[6]。
得意ネタは義太夫の素養を生かした「堀川」・「片袖」、幇間やその類の人物が活躍する「猿後家」・「太鼓腹」・「茶目八」・「河豚鍋」などが代表で、他には「隣の桜」・「借家怪談」・「寝床」・「阿弥陀池」・「莨の火」・「淀五郎」。珍しいネタでは「綿屋火事」など。笑い声や驚いた時の口調の描写は独特だった。染語楼時代の1940年の『上方はなし』第44号に掲載された「新人染語楼論」(伊勢三郎)には「染語楼君の芸にはたしかに大衆性がある。大衆にこびて行こうとする点さえもある。彼がもっと修行を積んだ落語家なら、筆者は大いにこの点を推奨したい。(中略)しかし修行中の彼がうけをねらったり、客にこびては芸が大成しない。芸が大きく伸びないで縮んでしまうのだ。」と、その大衆性を評価しながらも、それが制約となる危惧が指摘されていた[1]。幕内からは生涯「素人芸」という揶揄がついてまわったという[1]。3代目桂米朝は2004年の対談で染丸について「もうはっきり言うて、きっちりと噺を覚えない」と評し、そのために、6代目笑福亭松鶴は染丸を「好きやなかった」と述べている[7]。一方、2代目桂枝雀はアマチュア時代から3代目桂米朝に入門した頃までは染丸の落語が好きで口ぶりも真似ていたため、3代目桂米朝に「普通にいうたらどうや」と「数え切れんほど」指導されたという[8]。
最後の高座は1968年4月26日、サンケイホールでの「上方落語名人会」で演じた「猿後家」[9]。すでに肝臓癌の末期で、入院中の病院から外出許可を取って演じた。医者からは猛反対を受けたが押し切った[9]。約2か月後、肝臓癌で死去。62歳没。
門下には、4代目染丸の他、4代目小染(「ザ・パンダ」メンバー)、3代目染三(オール阪神・巨人の師匠)、染奴(後の月亭可朝)、染和(後の橘家圓三)等がいる。
『河豚鍋』で、河豚鍋をもらった旦那の家に出入りする男「大橋さん」の名は、3代目の本名と愛嬌溢れる容姿に由来する。元は林家一門内でのみ使われていたが、現在は他の一門に属する噺家が『河豚鍋』を口演する場合でも用いられている。
2017年6月17日に弟子の4代目染丸らを中心にして、3代目染丸の50回忌追善落語会が天満天神繁昌亭にて開催された[10]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 戸田 2014, pp. 168–170.
- ^ a b c 戸田 2014, pp. 194–195.
- ^ 文枝の証言は『上方落語協会 創立四十年記念』(1998年)からの引用。
- ^ 戸田 2014, p. 197.
- ^ 桂米朝・上岡龍太郎『米朝・上岡が語る昭和上方漫才』朝日新聞社、2000年、p.58
- ^ 戸田 2014, p. 280.
- ^ 戸田学(編)『六世笑福亭松鶴ばなし』岩波書店、2004年、p.117(「桂米朝師に聞く」、笑福亭鶴瓶との対談)
- ^ 戸田 2014, p. 246.
- ^ a b 戸田 2014, pp. 319–320.
- ^ 林家染丸 師匠に弟子が増えたと自慢したい…先代の五十回忌追善落語会 デイリースポーツ 2017年4月12日付