松野允彦
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松野 允彦 まつの のぶひこ | |
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生年月日 | 1938年3月27日 |
出生地 | 神奈川県[注 1][2] |
没年月日 | 2014年12月27日(76歳没) |
出身校 | 東京大学法学部第2類(公法コース)卒業[2] |
前職 | 大蔵官僚 |
称号 | 法学士(東京大学・1961年) |
在任期間 | 1990年6月29日 - 1992年6月26日 |
在任期間 | 1989年6月23日 - 1990年6月29日 |
大蔵省大臣官房審議官(証券局担当) | |
在任期間 | 1987年6月25日 - 1989年6月23日 |
関東財務局東京証券取引所監理官 | |
在任期間 | 1987年6月25日 - 1988年6月15日 |
在任期間 | 1986年6月10日 - 1987年6月25日 |
その他の職歴 | |
大蔵省銀行局総務課長 (1985年6月 - 1986年6月10日) |
松野允彦(まつの のぶひこ、1938年3月27日 - 2014年12月27日)は日本の大蔵官僚。血液型はA型[1]。
概要
[編集]東京都立小石川高等学校、東京大学法学部第2類(公法コース)卒業[2]。1961年 大蔵省入省(理財局総務課)。主計局防衛第一係長、公正取引委員会事務局経済部国際課係長の後、1968年7月 立川税務署長。課長補佐時代は証券局と理財局で勤務。1984年6月 銀行局銀行課長。1985年6月 銀行局総務課長。1986年6月10日 関東信越国税局長。1987年6月25日 関東財務局東京証券取引所監理官兼大臣官房審議官(証券局担当)。1988年6月15日 大臣官房審議官(証券局担当)。1989年6月23日 大臣官房審議官(銀行局担当)。1990年6月29日 証券局長。1992年6月26日 退官。同年7月10日 日本開発銀行理事(〜1994年7月)。1994年7月20日 全国地方銀行協会副会長(〜2002年6月)。2014年12月27日 硬膜下血腫で死去。
略歴
[編集]- 1961年4月:大蔵省入省(理財局総務課)。
- 1962年4月:理財局国庫課。
- 1963年6月:近畿財務局管財部。
- 1964年6月:名古屋国税局調査査察部。
- 1965年4月:大臣官房調査課調査主任[3]。
- 1966年4月:主計局防衛第一係長。
- 1966年8月:公正取引委員会事務局経済部国際課第一係長[4]。
- 1968年7月:立川税務署長。
- 1970年7月:証券局証券検査課長補佐。
- 1972年7月:証券局業務課長補佐(総括)[5]。
- 1974年7月17日:理財局資金第一課長補佐(運用一)[6][7]。
- 1975年7月:理財局資金第一課長補佐(総括・企画・調査)[8]。
- 1976年7月:理財局総務課長補佐。
- 1977年7月:理財局付(外務研修)。
- 1978年5月:外務省在アメリカ合衆国日本国大使館参事官。
- 1981年7月:証券局資本市場課長。
- 1982年6月:理財局国債課長。
- 1984年6月:銀行局銀行課長。
- 1985年6月:銀行局総務課長。
- 1986年6月10日:関東信越国税局長。
- 1987年6月25日:関東財務局東京証券取引所監理官 兼 大臣官房審議官(証券局担当)。
- 1988年6月15日:大臣官房審議官(証券局担当)。
- 1989年6月23日:大臣官房審議官(銀行局担当)。
- 1990年6月29日:証券局長。
- 1992年6月29日:退官。
- 2014年12月27日:硬膜下血腫で死去。
入省同期
[編集]入省同期に、寺村信行(国家公務員共済組合連合会理事長、国税庁長官、銀行局長、理財局長、経済企画庁長官官房長)、濱本英輔(ロッテ球団社長、日本政策投資銀行副総裁、国税庁長官)、野田実(衆議院議員)、畠山蕃(防衛次官)、八木橋惇夫(沖縄金融公庫理事長、環境次官)、源氏田重義(大和銀行副頭取、印刷局長)などがいる。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]官職 | ||
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先代 角谷正彦 |
大蔵省証券局長 1990年 - 1992年 |
次代 小川是 |
先代 千野忠男 |
大蔵省大臣官房審議官(銀行局担当) 中島公明と共同 1989年 - 1990年 |
次代 中島公明・中平幸典 |
先代 水谷文彦・宮本英利 |
大蔵省大臣官房審議官(証券局担当) 水谷文彦と共同 → 西村吉正と共同 1987年 - 1989年 |
次代 西村吉正・秋山昌廣 |
先代 水谷文彦 |
関東財務局東京証券取引所監理官 1987年 - 1988年 |
次代 中島公明 |
先代 大須敏生 |
関東信越国税局長 1986年 - 1987年 |
次代 岡野吉司 |