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松本電気鉄道モハ10形電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

松本電気鉄道モハ10形電車(まつもとでんきてつどうモハ10がたでんしゃ)およびクハ10形電車は、かつて松本電気鉄道(現、アルピコ交通上高地線で使用されていた電車である。

概要

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松本電鉄モハ101
廃車後新島々に留置されているときの姿(1988年5月)

1958年(昭和33年)から1964年(昭和39年)にかけて、老朽化の進行した木造電車の車体更新のため、両運転台の制御電動車モハ10形6両(101, 103, 105, 107, 109, 1011)と同形の制御車クハ10形1両(102)が日本車輌製造(日車)により製作され、上高地線の車両近代化に貢献した。台枠より上部の車体は新製であるが、下回りは全て再利用されていて性能も種車によって様々である。主制御器はHL方式(非自動間接制御)、ブレーキ装置はSME方式で統一されており、総括制御が可能であった。電気方式は直流750Vである。

車体は、当時の日車が企画した全鋼製17m級のいわゆる「日車標準車体」を採用しており、同系車は新潟交通岳南鉄道にも存在した。前面は貫通式で、貫通扉は引戸であるが貫通幌は取付けられていない。客用扉は片側に2個所でドアエンジン付きの片開き側面の窓配置は前記2社同様d2D6D2d(dは乗務員室扉、Dは客用扉、数字は扉の間の窓の数を表す)、側窓は上段をHゴム固定としたバス窓といわれるもので、下段は上昇式となっていた。

1980年代に入ると床下機器の老朽化が進行したため、当時老朽化した変電所と同時に更新することになり、このため1986年(昭和61年)12月24日に架線電圧が1500Vへ昇圧されるのに伴い、前日に全車が運用を退き、翌日廃車された。車両自体は倉庫代わりにもされていたためか1993年頃まで残されていた。

各車の経歴

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モハ101の台車
モハ101, 103, 105
1923年(大正12年)8月に日車で製造された形式ホデハ(デハ1, 3, 5)で、5は1930年(昭和5年)に2から改番されたものである。両運転台、片側3扉、ダブルルーフの木造車で、製造当初はポール集電の直接制御式であった。1927年(昭和2年)に主電動機の出力増強(65HP×2→72HP×4)、1952年(昭和27年)10月に集電装置をパンタグラフに変更した。
モハ10形への改造は1958年(昭和33年)12月5日付けのデハ5 → モハ105、1959年(昭和34年)7月1日付けのデハ3 → モハ103、1962年(昭和37年)7月6日付けのデハ1 → モハ101。制御装置のHL化は1956年9月に1、1959年1月に3と105である。
モハ107
1950年(昭和25年)10月20日付けで西武鉄道から譲受した形式デハ(デハ13)で、元は1923年5月梅鉢鉄工所製のモハ105(旧武蔵野鉄道サハ105。翌年10月デハ105。1948年にモハ105)である。松本電気鉄道初の総括制御車で、入線に際して主電動機を65HP×4から100HP×4に、ブレーキ装置をAMM-RからSMEに、パンタグラフをポールに改めたが、後に集電装置はパンタグラフに復している。1960年(昭和35年)7月1日付けで鋼体化によりモハ107となった。
モハ109
1927年4月、汽車製造製の形式ホデハ(デハ9)である。性能は1と同様で、集電装置の交換やHL化も同時期に施行された。車体の屋根はシングルルーフで、お椀形の通風器を装備している。1961年(昭和36年)7月17日付けで鋼体化によりモハ109となった。
モハ1011
1954年10月20日付けで京王帝都電鉄から譲受し、翌年11月1日付けで竣功した形式デハ1(デハ18)である。京王時代の旧番はデハ2006。入線時に主電動機を85HP×2から100HP×2に、ブレーキ装置をAMMからSMEに改めた。1963年5月24日付けで鋼体化によりモハ1011となった。
クハ102
1952年12月25日付けで日本国有鉄道から譲受した形式クハ29(クハ16)である。旧番号はクハ29013。もとは池田鉄道1926年(大正15年)7月に日車で製造したデハ1で、その後1932年(昭和7年)12月に大糸線の前身である信濃鉄道に譲渡されてデハ3(2代)となり、さらに1937年(昭和12年)6月に国有化されてモハ20003に改番、1949年(昭和24年)に電装解除されてクハ29013となったものである。1964年に鋼体化され、クハ102となった。その際、台車をブリル27MCB-2からTR10に交換されている。

関連項目

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