松平一郎
松平 一郎 | |
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生誕 |
1907年11月15日 イギリス、ロンドン |
死没 |
1992年12月24日(85歳没) 日本、日本赤十字社医療センター |
出身校 | 東京帝国大学 |
職業 |
東京銀行会長 カリフォルニア・ファーストバンク会長 |
配偶者 | 松平豊子 |
子供 |
松平恒忠(長男) 徳川恒孝(次男) 松平恒和(三男) |
親 |
松平恆雄(父) 松平信子(母) |
松平 一郎(まつだいら いちろう、1907年(明治40年)11月15日 - 1992年(平成4年)12月24日)は、日本の銀行家。会津松平家の分家当主で、東京銀行、カリフォルニアファーストバンクの各会長。 秩父宮雍仁親王妃勢津子は妹、徳川宗家第18代当主の徳川恒孝は次男。
経歴
[編集]松平容保の六男松平恆雄、鍋島直大の四女信子の長男としてイギリスのロンドンで生まれる。成蹊中学、水戸高を経て、1932年(昭和7年)に東京帝国大学文学部支那哲学科[1]を卒業。さらに同大学経済学部にも学ぶ[2]。この間の1928年(昭和3年)に勢津子(節子)が秩父宮雍仁親王に嫁いだ。1934年(昭和9年)、横浜正金銀行に入行し本店勤務となるが、近衛歩兵第1連隊で兵役に就き、陸軍少尉に任官している[3]。翌年12月の除隊直後に、徳川宗家17代当主徳川家正の長女豊子と結婚した。媒酌は近衛文麿夫妻である[4]。正銀の天津支店勤務を経て1939年(昭和14年)にサンフランシスコ支店に移る。翌々年に大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発すると抑留を受け、各地の収容所を転々とした。交換船によって帰国後、本店勤務を経て昭南(シンガポール)支店に赴任。日本の敗戦の際は再び収容所生活を送った[3]。
正金銀行が廃止されると、その後継銀行である東京銀行に勤務し、1952年(昭和27年)にはロンドン支店開設のためイギリスに赴任。帰国後は日比谷支店長となるが、1958年(昭和33年)には取締役支店長として再びロンドンに赴き、約4年在勤している。1973年(昭和48年)に会長職を退任後は相談役として経営に携わる。カリフォルニア・ファーストバンク会長の在任は24年におよび退任は1978年(昭和53年)である[3]。
社会の一線を引いた後はロータリアンとして世界各国や日本国内を夫婦で訪れ、財団管理委員、本部理事などを務めている。日本フィンランド協会会長ほか諸団体の役員でもあった。会津会名誉会員[5]。
親族
[編集]- 祖父:松平容保(会津藩主)
- 父:松平恆雄(宮内大臣、参議院議長)
- 母:松平信子(佐賀藩主鍋島直大四女)
- 妹:雍仁親王妃勢津子(秩父宮雍仁親王妃)
- 妹:徳川正子(尾張徳川家第20代当主徳川義知夫人)
- 弟:松平次郎(早世)
- 妻:徳川豊子(徳川宗家第17代当主徳川家正長女)
出典
[編集]参考文献
[編集]- 松平恒和『会津会会報第101号「父 松平一郎のこと」』1995年。
- 松平豊子『春は昔 徳川宗家に生まれて』文春文庫、2012年。ISBN 978-4-16-783834-8。
関連項目
[編集]- 若松コロニー(松平夫妻はここで没した子守少女おけいの墓参を果たした。)