コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

松平一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松平 一郎
生誕 1907年11月15日
イギリスの旗 イギリスロンドン
死没 (1992-12-24) 1992年12月24日(85歳没)
日本の旗 日本日本赤十字社医療センター
出身校 東京帝国大学
職業 東京銀行会長
カリフォルニア・ファーストバンク会長
配偶者 松平豊子
子供 松平恒忠(長男)
徳川恒孝(次男)
松平恒和(三男)
松平恆雄(父)
松平信子(母)
テンプレートを表示

松平 一郎(まつだいら いちろう、1907年明治40年)11月15日 - 1992年平成4年)12月24日)は、日本銀行家会津松平家の分家当主で、東京銀行カリフォルニアファーストバンクの各会長。 秩父宮雍仁親王妃勢津子は妹、徳川宗家第18代当主の徳川恒孝は次男。

経歴

[編集]

松平容保の六男松平恆雄鍋島直大の四女信子の長男としてイギリスロンドンで生まれる。成蹊中学水戸高を経て、1932年(昭和7年)に東京帝国大学文学部支那哲学科[1]を卒業。さらに同大学経済学部にも学ぶ[2]。この間の1928年(昭和3年)に勢津子(節子)が秩父宮雍仁親王に嫁いだ。1934年(昭和9年)、横浜正金銀行に入行し本店勤務となるが、近衛歩兵第1連隊で兵役に就き、陸軍少尉に任官している[3]。翌年12月の除隊直後に、徳川宗家17代当主徳川家正の長女豊子と結婚した。媒酌は近衛文麿夫妻である[4]。正銀の天津支店勤務を経て1939年(昭和14年)にサンフランシスコ支店に移る。翌々年に大東亜戦争太平洋戦争)が勃発すると抑留を受け、各地の収容所を転々とした。交換船によって帰国後、本店勤務を経て昭南(シンガポール)支店に赴任。日本の敗戦の際は再び収容所生活を送った[3]

正金銀行が廃止されると、その後継銀行である東京銀行に勤務し、1952年(昭和27年)にはロンドン支店開設のためイギリスに赴任。帰国後は日比谷支店長となるが、1958年(昭和33年)には取締役支店長として再びロンドンに赴き、約4年在勤している。1973年(昭和48年)に会長職を退任後は相談役として経営に携わる。カリフォルニア・ファーストバンク会長の在任は24年におよび退任は1978年(昭和53年)である[3]

社会の一線を引いた後はロータリアンとして世界各国や日本国内を夫婦で訪れ、財団管理委員、本部理事などを務めている。日本フィンランド協会会長ほか諸団体の役員でもあった。会津会名誉会員[5]

親族

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ 『東京帝国大学要覧』(昭和7年度)
  2. ^ 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京編』(第13版)「松平恒雄」
  3. ^ a b c 『父 松平一郎のこと』
  4. ^ 『春は昔』150頁
  5. ^ 『会津会会報第61号』1950年
  6. ^ 役員 上野学園大学”. 学校法人 上野学園大学. 2014年3月7日閲覧。
  7. ^ 日本フィンランド文化友好協会会長の松平恒忠氏が叙勲”. フィンランド大使館. 2014年1月13日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 松平恒和会津会会報第101号「父 松平一郎のこと」』1995年。 
  • 松平豊子『春は昔 徳川宗家に生まれて』文春文庫、2012年。ISBN 978-4-16-783834-8 

関連項目

[編集]
  • 若松コロニー(松平夫妻はここで没した子守少女おけいの墓参を果たした。)

外部リンク

[編集]