東映フライヤーズの歌
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「東急フライヤーズの唄 / 東映フライヤーズの歌」 | |
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楽曲 | |
リリース | 1950年(1967年に旋律を改訂) |
ジャンル | 球団歌 |
作詞者 | 藤浦洸 |
作曲者 | 古関裕而 |
「東映フライヤーズの歌」(とうえいフライヤーズのうた)は、かつてプロ野球のパシフィック・リーグに属していた東映フライヤーズの球団歌。作詞・藤浦洸、作曲・古関裕而[1]。
解説
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古関裕而が作曲した幻の球団歌「東映フライヤーズの歌」見つかる(北海道新聞 動画ニュース、2021年1月17日) |
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もう一つの幻の球団歌「東急フライヤーズの唄」(北海道新聞 動画ニュース、2021年1月17日) |
現在の北海道日本ハムファイターズの源流に当たるセネタース(戦前に活動していた東京セネタース→翼軍とは別組織)が1945年(昭和20年)末に設立された後、1947年(昭和27年)に東京急行電鉄傘下となり「東急フライヤーズ」へ改称した時に球団歌の制定が企画されたとみられる。作詞・作曲はどちらも日本コロムビア専属の藤浦洸と古関裕而に対して依頼され、東京急行電鉄社内報『清和』の1950年(昭和25年)5月号に「東急フライヤーズの唄」の歌詞と楽譜が掲載された[1][注 1]。
フライヤーズの球団運営は1954年(昭和29年)から東急グループの一員であった東映へ委託され「東映フライヤーズ」に改称したが[注 2]、球団歌は歌詞に企業名を含んでいなかったため引き続き演奏された。一方で、現存する楽譜には作曲者自身が1967年(昭和42年)に旋律の大幅な改訂を加えた「東映フライヤーズの歌」と題するバージョンが別に存在しており[1][注 3]、2つのバージョンの譜面は旋律の他にも拍数が異なり、「原曲は高音が多用されて歌いにくい」と言う意見を受けて作曲し直した可能性があるという[2]。
東映は1972年(昭和47年)末に日拓ホームへ球団を売却し1973年(昭和48年)の1シーズンのみ「日拓ホームフライヤーズ」として活動しており、この時は東映時代の球団旗を継続使用しているが、一方で球団歌も同様に引き継がれていたのかどうかは不明。その後、日拓ホームは1年弱で球団を日本ハムに売却して1974年(昭和49年)に「日本ハムファイターズ」となり、3年余りのブランクを経て1977年(昭和52年)に新球団歌「ファイターズ讃歌」が制定され現在に至っている。また、パシフィック・リーグの連盟歌も1950年の結成時から同年までは古関の作曲でサトウハチローが作詞した「おおわがパシフィック」であったが[3]、1978年(昭和53年)より現行の「白いボールのファンタジー」へ代替わりした。
楽譜の発見
[編集]古関は東急(東映)フライヤーズの他にも、阪神タイガースの「阪神タイガースの歌」[注 4]、読売ジャイアンツの初代「野球の王者」および3代目で現行の「闘魂こめて」、中日ドラゴンズの旧「ドラゴンズの歌」[注 5]と日本野球機構(NPB)の球団歌を複数作曲しているが、これらの3球団4曲はレコード盤に吹き込まれた音源が現存しているのに対し、フライヤーズの球団歌はレコード盤のみならず発表会での演奏記録も確認されていない[1]。そのため、古関の自伝『鐘よ鳴り響け』巻末の作曲リストや1999年(平成11年)にコロムビアから発売されたアルバム『作曲家研究名作選 古関裕而』(COCP-30359)ブックレットの解説で曲の存在自体は知られていたものの[注 6]、音源が無いため作詞者・歌詞・詳細な曲調は不明で半ば忘れられた状態となっていた[注 7]。
北海道新聞が2020年(令和2年)夏に開始した取材・調査の中で、ファイターズの広報は「(球団に当時の)資料は残っていない」と発言。北海道内のファイターズの私設応援組織「日本ハムファイターズ応援作戦会議」代表やフライヤーズの前身に当たるセネタース時代からのファン、さらには島田雄二ら取材時点で存命だった当時のフライヤーズの所属選手達も球団歌の存在を知らなかった[4]。
しかし、北海道新聞が調査を続けた結果、福島市古関裕而記念館に「東映フライヤーズの歌」の古関による自筆譜が所蔵されていることが判明した[1]。その過程で、作詞者が藤浦洸であることが判明し[注 8]、さらに発表当初の「東急フライヤーズの唄」から1967年(昭和42年)に作曲者自身の手で大幅な改訂が加えられていたことが判明した[注 3]。当初の「東急フライヤーズの唄」はハ長調・8分の6拍子であるのに対して、改訂後の「東映フライヤーズの歌」は変ホ長調・4分の4拍子になっている[5]。
同紙では発見された楽譜を基に、2020年(令和2年)12月に「東急」と「東映」の2バージョンを新規に収録した。音楽事務所「ブライトサッポロ」(北海道札幌市中央区)の協力で、ハモンドオルガンの伴奏と9人の歌唱によって実現したものであり、2021年(令和3年)1月17日よりウェブサイトで公開した[2]。
参考文献
[編集]- 古関裕而『鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝』(主婦の友社、1980年)NCID BN08731526
- 坂上康博、來田享子 編『東京オリンピック1964の遺産 成功神話と記憶のはざま』(青弓社、2021年) ISBN 978-4-7872-2092-9
- pp208-250, 尾崎正峰『第7章 「オリンピック・マーチ」が鳴り響いた空』
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 関連として、古関は戦時中に「東京急行電鉄株式会社社歌」(作詞:西條八十)を作曲している。
- ^ 東映はその後1964年(昭和39年)に東急グループから離脱したが、球団(株式会社東急ベースボール倶楽部)を東急が保有し東映興業が委託を受けて運営する体制は1972年(昭和47年)末に日拓ホームが球団を買収するまで続けられた。
- ^ a b 2020年(令和2年)に発見された楽譜には「42・7・9改訂」と記載されていることから、改訂日は1967年(昭和42年)7月9日と考えられる。また、歌詞も「東急」と比較すると2番の「力を業(わざ)を→力と業と」や3番の「かの青空→彼(か)の大空」など細部の改訂が行われた形跡が見られる。
- ^ 通称「六甲おろし」。1936年(昭和11年)に大阪タイガースの球団歌「大阪タイガースの歌」として制定。1961年(昭和36年)に球団名が阪神タイガースに変更されたのに伴い、現行の「阪神タイガースの歌」に改題。
- ^ 1950年(昭和25年)から1977年(昭和52年)まで使用、通称「青雲たかく」。
- ^ 曲名は『鐘よ鳴り響け』では「東映フライヤーズの歌」、『作曲家研究名作選 古関裕而』では「フライヤーズの歌」と表記。
- ^ 北海道日本ハムファイターズは2017年(平成29年)に「レジェンドシリーズ」として東映時代のユニフォームを復刻したが、この時もフライヤーズの球団歌は演奏されていない。
- ^ 藤浦は1961年(昭和36年)から7シーズンにわたり東映の監督を務めた水原茂と慶應義塾大学OB同士で親交があったが「東急フライヤーズの唄」を作詞したのは1950年(昭和25年)のため、その縁での起用ではなかったと見られる。
出典
[編集]- ^ a b c d e 伊藤駿 (2021年1月17日). “<みなぶん>古関裕而作曲、幻の球団歌「東映フライヤーズの歌」 楽譜と歌詞、故郷の福島に”. どうしん電子版 (北海道新聞社) 2021年1月17日閲覧。
- ^ a b 伊藤駿 (2021年1月17日). “<みなぶん>「東映フライヤーズの歌」実際に歌ってもらったら-”. 北海道新聞社 2021年1月17日閲覧。
- ^ 尾崎(2021), p225
- ^ 伊藤駿 (2021年1月18日). “<みなぶん>古関裕而作曲、幻の球団歌「東映フライヤーズの歌」の謎 (上)”. どうしん電子版 (北海道新聞社) 2021年1月18日閲覧。
- ^ 伊藤駿 (2021年1月25日). “<みなぶん>古関裕而作曲、幻の球団歌「東映フライヤーズの歌」の謎 (下)”. どうしん電子版 (北海道新聞社) 2021年1月25日閲覧。
関連項目
[編集]- 1962年の日本シリーズ - 東映が4勝2敗1分で同じく古関作曲の球団歌を持つ阪神に勝利し、球団史上初の日本一となった。
- 駒澤野球場
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