村雨 (春雨型駆逐艦)
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艦歴 | |
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計画 | 1900年度[1] |
起工 | 1902年3月20日[1] |
進水 | 1902年11月29日[1] |
就役 | 1903年7月7日[1] |
その後 | 1905年12月12日駆逐艦に種別変更[1] 1912年8月28日三等駆逐艦[1] 1922年4月1日特務艇編入、二等掃海艇類別[1] 1923年4月1日雑役船編入、魚雷標的船指定[1] |
除籍 | 1923年4月1日[1] |
廃船 | 1925年2月14日[1] |
性能諸元 | |
排水量 | 常備:375トン[2] |
全長 | 69.2m[2] |
全幅 | 6.6m[2] |
吃水 | 1.8 m[2] |
機関 | 艦本式水管缶(石炭専焼)4基[2] 直立式4気筒三連成レシプロ蒸気機械2基2軸[2] 6,000馬力[2] |
最大速力 | 29ノット[2] |
航続距離 | 10ノットで1,200海里[2] |
燃料 | 石炭:100トン[2] |
乗員 | 62人[3] |
兵装 | 7.6cm単装砲2基[2] 57mm単装砲4基[2] 45cm魚雷発射管単装2基[2] |
村雨(むらさめ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦で、春雨型駆逐艦の2番艦である。同名艦に白露型駆逐艦の「村雨」があるため、こちらは「村雨 (初代)」や「村雨I」などと表記される。
艦歴
[編集]1903年7月7日、横須賀造船廠で竣工し、軍艦に編入され駆逐艦に類別[1]。
1904年、日露戦争が勃発した際には第2艦隊第4駆逐隊に所属していた[4]。旅順口攻撃、黄海海戦、日本海海戦、樺太の戦いなどに参加した[1][4]。
1914年、青島の戦いに参加[1]。1922年4月1日、特務艇(二等掃海艇)に類別変更。1923年4月1日、雑役船(魚雷標的船)に編入。1925年2月14日、廃船[1]。
艦長
[編集]※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 艦長
- 水町元 少佐:1903年5月20日 - 1905年1月12日
- 小林研蔵 少佐:1905年1月12日 - 12月12日
- 駆逐艦長
- 小林研蔵 少佐:1905年12月12日 - 1906年2月8日
- (兼)秀島七三郎 中佐:1906年2月8日 - 1906年3月8日
- 中原弥平 大尉:1906年3月8日 - 11月12日
- 園田般二郎 大尉:1906年11月12日 - 1908年2月29日
- 木村豊樹 大尉:1908年2月29日 - 12月10日
- (兼)秋吉照一 大尉:1908年12月10日 - 12月23日
- (兼)副島慶一 大尉:1908年12月23日 - 1909年12月1日
- 荒城二郎 大尉:1909年12月1日 - 1911年12月1日
- 足立脩蔵 大尉:1911年12月1日 - 1912年12月1日
- 角恒吉 大尉:1912年12月1日 - 1913年12月1日
- 立川七郎 大尉:1913年12月1日 - 不詳
- 江口穀治 少佐:不詳 - 1916年12月1日
- 北条釐三郎 大尉:1916年12月1日 - 1917年12月1日[5]
- 松野省三 大尉:1917年12月1日 - 1919年12月1日
- 柳原信男 大尉:1919年12月1日[6] - 1920年10月5日[7]
- 石橋三郎 大尉:1920年10月5日[7] - 1921年12月1日[8]
- 一ノ瀬英太 少佐:1921年12月1日[8] - 1922年3月20日[9]
- (兼)片原常次郎 少佐:1922年3月20日 - 1922年11月10日
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 『世界の艦船増刊第107集 日本駆逐艦史』、海人社、2012年12月。