夕霧 (東雲型駆逐艦)
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艦歴 | |
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計画 | 第一期拡張計画[1](1896年度[2]) |
起工 | 1897年11月[2] |
進水 | 1899年1月26日[2] |
竣工 | 1899年3月10日[2] |
除籍 | 1919年4月1日 |
その後 | 潜水艇母船兼掃海船[2] 1920年7月1日二等掃海艇[2] 1922年4月1日標的船[2] 1924年3月14日廃船[2] |
要目 | |
排水量 | 常備:322トン |
長さ | 63.6m |
幅 | 6.0m |
吃水 | 1.7 m[3] |
機関 | 2軸推進、5,475shp |
速力 | 30ノット |
航続距離 | |
乗員 | 58人[4] |
兵装 | 8.0cm単装砲1基 57mm単装砲5基 45cm水上発射管2門 |
夕霧(ゆうぎり / ゆふぎり)は、大日本帝国海軍の駆逐艦で、東雲型駆逐艦の3番艦である。同名艦に吹雪型駆逐艦(「特II型、綾波型」)の「夕霧」がある為、こちらは「夕霧 (初代)」や「夕霧I」などと表記される。
艦歴
[編集]1899年3月10日、イギリス・ソーニクロフト社で竣工し、水雷艇(駆逐艇)に類別[2]。同年6月15日、横須賀に到着[2]。1900年6月22日、軍艦に編入され、駆逐艦に類別[2]。
1904年、日露戦争が勃発した際には第二艦隊第五駆逐隊に所属していた[5]。旅順口攻撃、黄海海戦、日本海海戦、樺太の戦いなどに参加した[2][5]。1905年5月27日、日本海海戦の夜戦で僚艦「春雨」と衝突して艦首を損傷。沈没を回避し同月28日夜に佐世保に到着した[5]。
1905年12月12日駆逐艦に種別変更[2]。
1912年8月28日三等駆逐艦[2]。
1919年4月1日、雑役船(潜水艇母船兼掃海船)に指定、「夕霧丸」と改称。1920年7月1日、特務艇(二等掃海艇)に編入され、「夕霧」に再改称。1922年4月1日、再度雑役船(標的船)に編入。1924年3月14日、廃船認許[2]。
雑役船編入、潜水艇母船兼掃海船指定、夕霧丸と改名[2]
1920年7月1日特務艇編入、二等掃海艇類別、艦名を夕霧に復帰[2]
1922年4月1日雑役船編入、標的船指定[2]
艦長
[編集]※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 第七号水雷駆逐艇回航委員長
- 藤本秀四郎 少佐:1898年3月8日 - 1898年3月29日
- 回航委員長
- 石田一郎 少佐:1898年5月19日 - 1898年10月28日
- 矢島純吉 少佐:1898年10月28日 - 1899年7月6日
- 艦長
- 富士本梅次郎 大尉:1900年6月22日 - 9月25日
- 千坂智次郎 少佐:1900年9月25日 - 1903年2月18日
- 西禎蔵 少佐:1903年2月18日 - 9月26日
- 鍵和田専太郎 少佐:1903年9月26日 -
- 駆逐艦長
- 田代巳代次 少佐:1905年12月12日 - 1906年3月20日
- 堀江鶴彦 大尉:1906年3月20日 - 1907年5月17日
- 斎藤温海 大尉:1907年5月17日 - 1909年5月25日
- 日高寛 大尉:1909年5月25日 - 1910年3月11日
- (兼)阿部恒雄 大尉:1910年3月11日 - 12月1日
- 平山栄 大尉:1910年12月1日 - 1911年7月15日
- 関谷光平 大尉:1911年7月15日 - 1912年5月22日
- 平山栄 大尉:1912年5月22日 - 12月1日
- 及川古志郎 大尉:1912年12月1日 - 1913年12月1日
- 土田数雄 大尉:1913年12月1日 - 1914年5月27日
- 野口寛 少佐:1914年5月27日 - 1915年12月13日
- 増田重義 大尉:1915年12月13日 - 1916年4月1日
- 山田松次郎 大尉:1916年4月1日 - 12月1日
- 小山泰治 大尉:1916年12月1日 - 1918年9月10日[6]
- 古賀七三郎 大尉:1918年9月10日[6] - 12月1日[7]
- 穂本繁治 大尉:1918年12月1日[7] - 1919年3月10日[8]
- (兼)本田源三 大尉:1919年3月10日[8] -
脚注
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。