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李義深

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

李 義深(り ぎしん、496年 - 552年)は、北魏末から北斉にかけての官僚本貫趙郡高邑県[1][2][3]

経歴

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李紹の子として生まれた。経書史書を渉猟し、実用の才があった。はじめ済州征東府功曹参軍となり、龍驤将軍の位を加えられた。普泰元年(531年)、高歓が信都で起兵すると、高歓の下で大行台郎中となった。中興元年(同年)、平南将軍・鴻臚少卿に任ぜられた。義深は爾朱兆の兵力が上回っているとみて、高歓を裏切って爾朱兆のもとに走った[4][2][3]

爾朱兆が平定された後、高歓は義深の罪を許して、大丞相府記室参軍として任用した。左光禄大夫・相府司馬に累進し、并州長史に転じた。并州刺史可朱渾元が行政の実務にうとかったので、実務の多くを義深に委ね、義深は州の事務を迅速に決裁した。後にまた高歓の下で大丞相司馬となった[5][6][3]

武定年間、斉州刺史に任ぜられ、利殖を好み、収賄することが多かった。天保元年(550年)、行鄭州事となり、行梁州事に転じ、まもなく散騎常侍に任ぜられ、陽夏郡太守となった。州における収奪を段業に告発され、拘禁されて梁州に送られた。天保3年(552年)、配所で病没した。享年は57[5][7][3]

家族

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祖父

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  • 李真(字は令才、北魏の中書侍郎)[1][2][3]

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兄弟

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義深には兄弟が7人おり、多くは学識があった[8][7]

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  • 李騊駼(北斉に仕えて尚書郎・鄴県令となった。武平初年に通直散騎常侍を兼ねて、への使者をつとめた。後に寿陽道行台左丞となり、王琳らとともに陳に捕らえられた。北周の末年、北方に逃げ帰った。開皇年間に永安郡太守・絳州長史をつとめた)[5][7][3]
  • 李文師(中書舎人・斉郡太守を歴任した)[8][7][3]

脚注

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  1. ^ a b c 氣賀澤 2021, p. 326.
  2. ^ a b c d 北斉書 1972, p. 323.
  3. ^ a b c d e f g h 北史 1974, p. 1240.
  4. ^ 氣賀澤 2021, pp. 326–327.
  5. ^ a b c 氣賀澤 2021, p. 327.
  6. ^ 北斉書 1972, pp. 323–324.
  7. ^ a b c d 北斉書 1972, p. 324.
  8. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 328.

伝記資料

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参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4