朽木舖綱
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 享保15年11月24日(1731年1月2日) |
死没 | 天明7年9月19日(1787年10月29日) |
改名 | 千之助・舎人(幼名)、舖綱、了泰(法号) |
別名 | 鋪綱 |
戒名 | 徳寿院殿本覚桃源大居士 |
墓所 | 京都府福知山市土師の円覚寺 |
官位 | 従五位下・伊予守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 丹波福知山藩主 |
氏族 | 朽木氏 |
父母 |
父:朽木玄綱、母:お咲 養父:朽木綱貞 |
兄弟 |
舖綱、松平乗純、牧野成音、松平乗保、 浄鏡院、内藤長好正室、柴田勝満正室、松平忠孝正室、朽木道綱正室ら |
子 |
文、左衛、倫綱 養子:昌綱 |
朽木 舖綱(くつき のぶつな)は、江戸時代中期の大名。丹波国福知山藩の第7代藩主。福知山藩朽木家8代。諱は鋪綱とも記される。
略歴
[編集]享保15年(1730年)11月24日、第5代藩主・朽木玄綱の長男として誕生した。明和7年12月5日(西暦では1771年1月20日)、第6代藩主・綱貞の養嗣子となる。本来なら玄綱の跡を継ぐはずだったが、綱貞が家臣団から擁立されたため、舖綱は綱貞の養子となった。明和8年(1771年)2月15日、第10代将軍・徳川家治に拝謁する。同年12月18日、従五位下・伊予守に叙任する。安永9年(1780年)8月5日、綱貞の隠居により家督を継いだ。
舖綱は『擬独語』を著わし、藩校創設の基礎を築き上げるなど、藩政を立て直すために積極的な藩政改革を目指したが、家督相続から7年後の天明7年(1787年)9月19日に福知山で死去し、十分な成果を挙げることはなかった。享年58。