朴浚圭
朴 浚圭(パク・チュンギュ、朝鮮語: 박준규、1925年9月12日 - 2014年5月3日)は、韓国の政治家、第5・6・7・8・9・10・13・14・15代大韓民国国会議員[1]。大邱達城郡、ソウル城東区、大邱東区、大邱中区などの地方選挙区だけで9選したため、韓国の憲政史上の最多選の記録を持つ政治家の1人である[2][3]。大韓民国国会の第13代後半、第14代前半、第15代後半期の議長を歴任したため、異なる会期で3回も国会議長職を務めた記録も持っている[2]。
本貫は順天朴氏。号は松山(송산)[1]。朴彭年の第18世孫であり[4]、叔母の朴杜乙は実業家・李秉喆の妻[5]、元国会議員の白南檍は姉妹の夫[6]、妻は趙芝薫の従姉妹[7]。元国会議員の朴鍾根は従甥(従兄の息子)[8]。
生涯
[編集]1925年、日本統治時代の朝鮮の大邱府に生まれた。ソウル大学校政治外交学科学士、ブラウン大学国際政治学修士、コロンビア大学公法行政課博士課程修了[1]。その後はハーバード大学、カリフォルニア大学バークレー校、スタンフォード大学での研修を経て、ソウル大政治科教授、外務部事務官を務めた[1][2]。外務部事務官を務めた時に国連韓国代表の趙炳玉と知り合った縁で政界入りし、第3代、第4代総選挙で落選したが、第5代総選挙で初当選した[2]。国会議員在任中は国会外務委員長、民主共和党議長、南北国会会談首席代表、民主正義党代表委員、大統領特使国連代表、列国議会同盟名誉会員、国会議長3期を務めた[1]。また、第3代総選挙落選後は高麗火災副社長を、5・16軍事クーデター後は釜山日報社長をそれぞれ務め、第8代総選挙落選後(後の補欠選挙で当選)は韓国政経研究所を運営した[3]。
1988年の第13代総選挙では民主正義党公認で大邱市東区から出馬し当選した[3][9]。同年末、民主正義党の代表委員に任命されたが、1989年12月に朴がインタビューで、当時の第五共和国清算と民主改革などの課題の下で[10]、盧泰愚大統領の総裁職離脱と民主正義党の解体などを示唆する発言をした。これに対し鄭鎬溶や李鍾賛などの議員は反発し、同月29日に代表委員職を引責辞任した[11][12]。
1992年に朴が第14代総選挙でも大邱市東区から出馬し当選した[13]。所属する民主自由党は第14代総選挙でも多数党だったため、前会期に続き第14代国会前半期の国会議長を務めることになったが、金泳三政権の発足後に新設された公職者の財産開示の規定により、家族名義での不動産投機疑惑などが浮上したため、1993年に国会議長および国会議員職を退いた[14][15]。なお、同じく「腐敗政治家」として失脚し、後の自由民主連合総裁となった朴泰俊もこの件で金泳三と深く対立し、ハンナラ党に対して否定的な態度を取った[16]。
1995年に金鍾泌元首相が自由民主連合を結成すると朴もそれに合流し、党最高顧問になった。1996年に執行された第15代総選挙では大邱中区選挙区に出馬し当選した。その後の大統領選挙において、金大中・金鍾泌の候補一本化議論で金大中への支持を表明し、党の要職を務める朴泰俊らと共に大邱慶北地域での金大中の当選を支援した[17][18][19]。1998年に国民会議と自民連の与党連合候補として第15代国会後半期の議長職に当選し、国会議長を3回当選したという記録を立てた[20][21][22][23]。なお、朴の国会議長の選出前は国会第1党ではなく第3党所属だったため、第六共和国では珍しい例の1つに挙げられている[24]。2000年の第15代国会の任期満了と同時に政界を引退した。その後、対外的に目立つ特別な活動は展開しなかったが、2011年12月17日に朴泰俊の葬式に追悼の言葉を残した[25]。2014年5月3日に死去、88歳没[26]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e “대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2022年7月5日閲覧。
- ^ a b c d “국회의장만 3번, 최다선 국회의원 기록…박준규 前 의장 별세” (朝鮮語). kukinews.com (2014年5月3日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ a b c “인물탐구... 박준규 국회의장” (朝鮮語). mk.co.kr (1992年7月20日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ “[선비 정신의 미학(47)] ‘충절의 표상’ 사육신 충정공(忠正公) 박팽년”. 월간중앙 (2020年1月17日). 2023年9月6日閲覧。
- ^ “新 한국의 가벌 #1. 삼성 이병철家 - LG 창업주 구인회와 사돈 맺으며 재벌가 ‘혼맥 시대’ 열어” (朝鮮語). sisajournal.com (2014年11月6日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ “박노익 - 디지털달성문화대전”. dalseong.grandculture.net. 2023年9月6日閲覧。
- ^ “박준규 국회의장 재치있는 8선…정치감각 탁월” (朝鮮語). 매일경제 (1992年6月29日). 2023年9月6日閲覧。
- ^ “서로 다른 길 걷는 친인척 정치인” (朝鮮語). 시사저널 (1997年12月18日). 2023年10月10日閲覧。
- ^ 경향신문 (1988年3月17日). “13대總選(총선)을 보는 政治部(정치부)기자 방담 爭點(쟁점)없는 熱戰(열전) 世代(세대)교체 바람일듯”. 네이버 뉴스 라이브러리. 2022年7月5日閲覧。
- ^ “박준규 신임민정당 대표 정국 구상 인터뷰[추성춘]” (朝鮮語). MBC NEWS (1988年12月8日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ “노태우대통령, 박준규 민정대표위원 사표 수리[김성수]” (朝鮮語). MBC NEWS (1989年12月29日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ “민정 정계 개편 설로 내분|「당 해체」발언 박준규 대표 사퇴” (朝鮮語). 중앙일보 (1989年12月29日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ “박준규 전 국회의장/의원직 사퇴” (朝鮮語). 韓国日報 (1993年7月1日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ “박준규국회의장 아들명의 주택 75가구/백30억원대 빌딩까지 소유” (朝鮮語). 중앙일보 (1993年3月23日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ “박준규의장 “사퇴”/부동산투기 비난여론에 밀려” (朝鮮語). 중앙일보 (1993年3月24日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ “TJ YS에 설움 앙갚음” (朝鮮語). imaeil.com (1998年4月1日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ “TJ 연대 등 '영남 끌어안기' .. 김대중 국민회의 총재” (朝鮮語). 한경닷컴 (1997年9月29日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ “[박준규고문 탈당위협] DJ-TK, 안팎에서 JP 목죄기” (朝鮮語). 조선일보 (1997年9月11日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ “DJT 승리군단; 김대중 대통령 당선 공로자인 김종필 박태준 조세형 이종찬 한광옥 박지원 정동영 김한길 김용환 노무현 김민석 추미애 등” (朝鮮語). KBS 뉴스 (1997年12月19日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ “[국회의장 선출 팽팽했던 표대결]” (朝鮮語). 중앙일보 (1998年8月4日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ “국회의장 박준규의원 당선” (朝鮮語). KBS 뉴스 (1998年8月3日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ “국회의장 선거 1일전 박준규 오세응 후보 인터뷰[최기화]” (朝鮮語). MBC NEWS (1998年8月2日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ “[국회의장 선거 예상 시나리오]” (朝鮮語). 중앙일보 (1998年8月3日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ “'3당 체제' 국회, 의사결정 시스템도 달라져”. www.newstomato.com (2016年4月14日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ “고 박태준 포스코 명예회장 영결식” (朝鮮語). 聯合ニュース (2011年12月17日). 2022年7月5日閲覧。
- ^ “[명복을 빕니다박준규 前 국회의장]” (朝鮮語). www.donga.com (2014年5月6日). 2022年7月5日閲覧。