本多助受
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦14年5月4日(1764年6月3日) |
死没 | 文政7年6月13日(1824年7月9日) |
改名 | 彦三郎(幼名)、 |
別名 | 左門(通称)、助富(別名) |
戒名 | 文教院殿前志州太守寛与知量有道大居士 |
墓所 | 東京都港区六本木の教善寺 |
官位 | 従五位、豊後守、志摩守 |
幕府 | 江戸幕府大坂加番 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 信濃飯山藩主 |
氏族 | 本多氏 |
父母 |
父:本多助之、母:堀田正亮の娘 養父:本多助盈 |
妻 | 正室:丹羽高庸の娘 |
子 |
彦三郎、助実、娘(本多助賢正室)、娘(中根正寛室) 養子:助賢 |
本多 助受(ほんだ すけつぐ)は、信濃飯山藩の第5代藩主。広孝系本多家9代。
生涯
[編集]宝暦14年(1764年)5月4日、第4代藩主・本多助盈の長男・本多助之の長男として生まれる。助之は早世したため、助受が祖父助盈の嫡子となった。安永3年(1774年)3月29日、祖父・助盈の死去により家督を相続した。安永9年5月1日、将軍徳川家治に拝謁する。天明2年(1782年)12月19日、従五位下豊後守に叙任する。天明5年(1785年)8月から翌年8月まで大坂加番を務める。寛政元年(1789年)4月、日光祭礼奉行を務める。
寛政6年(1794年)には大火が起こって領内で大被害を受け、さらにこの年に琉球使節との応対を任されていたにもかかわらず、その使節の音楽を聴いていたときに失礼があったとして、寛政7年(1795年)まで出仕を停止させられている。寛政10年(1798年)にも大火で領内に大被害を受けた。
文化3年(1806年)7月23日、隠居し、養子の助賢に家督を譲る。文政7年(1824年)に志摩守に遷任するが、直後の6月13日に江戸で死去した。享年61。
系譜
[編集]父母
正室
- 満 ー 丹羽高庸の娘
子女
養子