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木造教親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
木造教親
時代 室町時代
生誕 応永31年(1424年
死没 応仁2年10月2日1468年10月17日
別名 北畠黄門
官位 従二位権中納言
幕府 室町幕府
主君 北畠教具
氏族 木造氏
父母 父:持康、母:不明
親方政宗康親
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木造 教親(こづくり のりちか)は、室町時代武将公家木造家5代当主。「教」の字は室町幕府第8代将軍足利義教より偏諱を受けたもの。

生涯

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木造氏伊勢国国司大名北畠氏庶流の筆頭であったが、足利義満の代に在京し幕府に接近するようになり、応永21年(1414年)に北畠満雅が挙兵した際も教親の祖父・木造俊康は幕府方として戦った。そのため、木造氏は北畠氏を上回る官位に昇るようになり、木造教親も享徳元年(1452年参議として公卿に列すと、長禄2年(1458年権中納言寛正6年(1465年従二位に叙任されている。

応仁元年(1467年畠山氏斯波氏の家督相続問題などが関係して応仁の乱が発生する。8代将軍足利義政の弟足利義視は、当初は東軍に属し6月には西軍追討の総大将となったが、その後、室町殿から今出川殿に戻され、更に細川勝元の態度から、身辺に不安を感じるようになっていた[1]

同年8月23日に足利義視は中立であった北畠家を頼るため、教親の陣所の中山殿に入り、教親に警護されて武者小路を東へ向かい、蛸薬師の辻を一条へ向かった。釘貫門は東軍の富樫政親の兵が守っていたが、教親が「三条内府が病気で東山に居り、今出川殿(足利義視)が見舞いに参るのである。開門せよ」と言った。しかし、富樫は不審がって開けず「鍵が無い」と答えたため、教親は予てより用意しておいた合鍵で開門した。足利義視は近江坂本の石川次郎の館に入り、義姉の日野富子がお忍びで坂本に来たのでお暇乞いを行い、伊賀を抜けて伊勢に入り、翌9月6日に北畠教具に迎えられた[1]

応仁2年(1468年)10月2日または12月2日に伊勢国にて薨去享年45。

官歴

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注記のないものは『諸家伝』による。

脚注

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  1. ^ a b 応仁記
  2. ^ 『公卿補任』
  3. ^ 寛政重修諸家譜

参考文献

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  • オープンアクセス国立国会図書館デジタルコレクション 群書類従. 第拾參輯』 (第376巻)応仁記、経済雑誌社、1893年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879780/193 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • オープンアクセス堀田正敦編国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜』 第3輯、國民圖書、1923年。全国書誌番号:21329093https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082714/218 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 正宗敦夫編『諸家伝』日本古典全集刊行会、1940年