望月玉蟾
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望月 玉蟾(もちづき ぎょくせん、元禄5年(1692年) - 宝暦5年8月3日(1755年9月8日))は、江戸時代中期の日本画家。望月派の派祖。名は重勝、玄。通称、藤兵衛、興五郎。字を守静。号に玉蟾、玉仙、玉庵、静庵など。
経歴
[編集]京都の蒔絵師、望月重供の子に生まれ印籠に蒔絵を描く。土佐派の土佐光成、狩野派の狩野元信に倭絵を、長谷川派の山口雪渓に漢画を、佐々木志津磨に書を学ぶ。池大雅と清国絵画の学習を志し、自身は唐寅を、大雅は呉鎮を学んだと伝わるが程度は不明。力強い水墨画を描きながら一方で細密な青緑山水画(着色山水画)で知られ、延享年間(1744年 - 1748年)には宮廷に上がり障壁画などを制作したようだ。
後継
[編集]- 望月派は子の望月玉仙(望月誠斎。名は重祐)が継ぐ。彼も玉蟾の号を用いており、父と区別するために「玉蟾誠斎」とも呼ばれる[1]
- 弟子に大西酔月、画僧の鼇山がいる[2]。浅井図南、足代弘訓、皆川淇園も画を玉蟾に師事した[2]。
作品
[編集]作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款・印章 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
寿老人図 | 絹本著色 | 1幅 | 98.3x42.6 | 宝泉寺 (京丹後市) | 1744年(延享元年) | 款記「延享初元季秋如意珠日/望玉蟾画」/「望玄之印」朱文方印・「玉蟾氏」白文方印 | 画賛あり[3]。 |
仙人図 | 紙本著色 | 六曲一双押絵貼 | 133.5x50.6(各) | 滋賀県立琵琶湖文化館[4] | |||
梅鶏図屏風 | 霊雲院 | ||||||
柳猿猴芦雁図屏風 | 紙本墨画 | 六曲一双 | 本間屏風 | 相国寺 | 無款 | 伝雪舟筆「柳猿群禽図屏風」(奈良県立美術館蔵)の模写 | |
仙人図 | 絹本著色 | 1幅 | 新善光寺 (京都市東山区) | 款記「望玉蟾画」 | |||
九老図 | 絹本著色 | 1幅 | 116.2x43.4 | 広島県立美術館 | |||
松下猛虎図 | 絹本墨画 | 1幅 | 117.0x55.2 | 広島県立美術館[5] | |||
維摩居士図 | 紙本墨画 | 1幅 | 106.0x44.0 | 広島県立美術館[5] | |||
桃源図 | アメリカ、G・J・シュレンカーコレクション | 中国明時代末の「八種画譜」に基づく |
脚注
[編集]- ^ 「望月玉仙」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収)』 。コトバンクより2016年10月26日閲覧。
- ^ a b “望月玉蟾の検索結果”. 美術人名事典. 2016年10月26日閲覧。
- ^ 京丹後市史編さん委員会編集 『京丹後市史資料編 京丹後市の美術』 京丹後市役所、2013年3月29日、p.199。
- ^ 藤本淳三 「修理報告 紙本著色仙人図 望月玉蟾 紙本木版著色選択集十六章之図 高田敬輔筆」『滋賀県立琵琶湖文化館 研究紀要 第32号』 2016年3月28日、pp.30-33。
- ^ a b 広島県立美術館編集・発行 『広島県立美術館所蔵作品図録』 1990年3月31日)pp.28-29。