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有沢賢持

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
有沢 賢持
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道新冠郡新冠町
生年月日 (1950-07-27) 1950年7月27日(74歳)
身長
体重
169 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1978年 ドラフト3位
初出場 1984年6月20日
最終出場 1985年10月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

有沢 賢持(ありさわ けんじ、1950年7月27日 - )は、北海道新冠郡新冠町出身の元プロ野球選手投手)。

来歴・人物

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北日本学院大高では3年次の1968年、エース、4番打者として夏の甲子園に出場[1]。1回戦では若狭高乗替寿好と投げ合い1-0で完封勝利したが、2回戦で高知高に敗退。

高校卒業後は1969年大昭和製紙北海道へ入社するが、チームにあまり馴染めず、1973年に日産サニー札幌に移籍[2]

結成当初はゴロもフライも捕れない弱小チームであったが、毎朝、午前6時前から練習し、8時に出社してセールスに歩き、午後1時から3時間半練習し、夕方に再出社すると夜9時まで働き、それからまたランニングした[2]もよく売り歩き、1ヶ月に50台はセールスした[2]。チームはみるみる強くなり、古巣・大昭和製紙北海道、新日鐵室蘭王子製紙苫小牧たくぎん電電北海道北海道5強に練習試合で、時には勝つほどまでになった[2]

1975年都市対抗に電電北海道、1976年都市対抗にたくぎんの補強選手として出場。1976年には救援投手として活躍し、広島マツダとの準決勝で勝利投手となる。決勝では日本鋼管と対戦し、9回に先発の千藤和久をリリーフするが決勝点を献上、0-1で敗退しチームは準優勝にとどまった。1978年にも新日鐵室蘭の補強選手として登板している[3]

1978年のドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。スリークォーターからストレート、カーブ、シュート、スライダー、チェンジアップ、シンカーと多彩な変化球を操り、中継ぎとして期待された。

入団当時は結婚3年目、生後10ヶ月になる長男がいた[4]千歳空港から飛行機に乗る時には妻は何も言わなかったが、先々を考えて、契約金2000万円の殆どを定期預金に預けた[4]。1年目の1979年の年明けには板橋区内マンションを借りた[4]

連覇を目指すチームは厳しい空気で、ユマキャンプは朝から休みなしの練習で、有沢は正直、とんでもない世界に飛び込んだと思った[4]。ブルペンで松岡弘尾花高夫らエース格と並んで投げると、球威も球速もレベルが違い、自信はもろくも崩れ、二軍に落ちた[4]

1980年にはジュニアオールスターゲームにも出場するが、1981年オフに戦力外通告を受け、打撃投手としてチームに残ることとなる[1]

打撃投手転向後は打たせないのではなく、打たせるのが役目のため、頭の切り替えが難しかったが、試合開始前の30分間に200球を投げた[4]。試合開始後はベンチを離れ、1人でロッカールームに行き、シャワーを浴び、場内アナウンスが先発メンバーを読み終わる頃には背広に着替えて、ビデオ係としてビデオカメラを手にネット裏に向かう[4]。両チームの投手と打者のフォームを丹念に撮影し、試合終了後はクラブハウスの端に置かれている大型テレビの前に座り、ビデオを再生[4]。打者の癖やウイークポイントを見つけ、投球フォームを見て、ちょっとした仕草から球種などを割り出し、分析結果は大学ノートに書き留めた[4]

仕事を終えてクラブハウスを出るのは午前0時近くで、終電で帰宅[4]。車内でもノートに蛍光ペンでラインを引きながら[4]、ポイントを頭に叩き込んだ[5]。運動具店への出入りはなくなり、文具店にばかり走るなど仕事に熱中していると、一流打者にも癖や欠点があることに気付き、仕事の面白みが急に膨らんだ[6]。球種、コース、高低によって、その打者の打球はどこに飛ぶ確率が高いか、個人ごとにカード化してみた[6]。直球は青、カーブは赤、スライダーは黄、フォークは緑の線で、打球の方向をマークしていくと、打者の特色が分かり、それを個人カード化した[6]篠塚和典は真ん中の打ち損ねが多く、山本浩二は低めのボールを内野ゴロに打ち損じるケースが意外に目立った[6]。強打者は、得意コースの1、2球外れにウイークポイントがあることも発見し、相手チームの事をコーチに話し、自軍選手の事は本人に直接告げ、スランプの選手が相談にくることも多くなり、次第にやり甲斐を感じ出した[6]

1984年には左投手不足と中継ぎ不足を補うため現役復帰を果たし[1]22試合に登板、33歳での初登板として話題になる。

1984年の途中に就任した土橋正幸監督は打撃練習の時に必ずマウンドの投球ゲージの後ろに立ち、振り向くと大きな目で睨まれたため、有沢は内心「やりにくいなあ」と思いながら、打者に打ちやすい球を投げなきゃ怒鳴られると気を遣った[6]

現役復帰は甲子園阪神戦を終え、宿舎に帰るバスの車中に土橋が「有沢、お前、現役に戻れ」と突然声を張り上げたことで分かり、有沢は驚いての上のカメラを落としそうになり、周囲の選手も妙な冗談を言うものだと黙っていた[6]

1985年にも23試合に登板するが、の故障もあって実績を残せず、2度目の戦力外通告を受け、同年限りで現役を引退。

引退後は北海道ヤクルトの営業マン[1]を務め、2007年から2008年にはプロ野球マスターズリーグ札幌アンビシャスに投手として参加。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1984 ヤクルト 22 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 67 17.1 11 0 7 0 0 10 1 0 6 5 2.60 1.04
1985 23 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 90 18.1 21 4 15 2 1 7 0 0 12 12 5.89 1.96
通算:2年 45 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 157 35.2 32 4 22 2 1 17 1 0 18 17 4.29 1.51

記録

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背番号

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  • 45 (1979年 - 1981年)
  • 83 (1982年 - 1984年)
  • 13 (1985年)

脚注

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  1. ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、23ページ
  2. ^ a b c d 森哲志「不屈のプレイボール: 元プロ野球選手16人、球場去りし後の負けない人生」河出書房新社2002年3月1日ISBN 430926543X、p155。
  3. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  4. ^ a b c d e f g h i j k 森哲志「不屈のプレイボール: 元プロ野球選手16人、球場去りし後の負けない人生」、p157。
  5. ^ 森哲志「不屈のプレイボール: 元プロ野球選手16人、球場去りし後の負けない人生」、pp157-158。
  6. ^ a b c d e f g 森哲志「不屈のプレイボール: 元プロ野球選手16人、球場去りし後の負けない人生」、p158。

関連文献

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  • 山際淳司『エンドレス・サマー』(角川書店, 1985年) ISBN 4-04-154052-6 「打撃投手」において現役復帰1年目が記述されている。

関連項目

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外部リンク

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