有史時代における各国の出身人物による最初期の来日の年表
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有史時代における各国の出身人物による最初期の来日の年表では、現在に存在しているそれぞれの国・地域の領域における出身者が過去最初に、もしくは最初期に日本に来航した事例を編年で紹介するものである。
注意
[編集]- この一覧は未完成です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
この年表では、あくまで文字資料による記録に絞って記述しているため、考古学的な見地からさらに古い時代の交流が示唆されている場合もある。注記のない限り、各国から最初に来日した人物について網羅したと標榜する資料に拠っているものではなく、また今後の研究の進展によって随時変化しうるものであるということに留意する必要がある。また、現代と当時とで国の範囲や独立性について違いが発生している場合も多くあるが、明確化のために、現在(2018年)に国連に加盟している国家とヴァチカン市国に属しているとされる領域を基準に考えることにする。
一千年紀以前
[編集]- 天平勝宝6年(754年) – 12月12 日、上記の鑑真らとともに安国(現在のブハラ)出身と推測される仏僧如宝が屋久島に来航した[9]。ただし出身国については「胡国の人」とされているだけである。俗姓とされる「安」から出身国が推測されているだけであり、例えば安息国(パルティア。ペルシャ地域、現在のイラン)である可能性も指摘されているなど、ウズベキスタン出身であると確定しているわけではない。
11世紀から15世紀
[編集]16世紀
[編集]- 天文15年(1546年)– この年来日したポルトガル商人ジョルジ・アルヴァレス(ポルトガル探検家ジョルジ・アルヴァレスとは同姓同名の別人)の船にモザンビーク出身の船乗りもしくは奴隷が乗船していた[15]。
- 元亀元年(1570年)– 宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノが天草に来航[16]。
- 天正13年(1585年)– ディルク・ヘリッツゾーン・ポンプがポルトガル船に砲手として搭乗し来航。なお、それ以前にも一度日本を訪れたことがあったようだが、時期は不明[17]。
- 慶長5年(1600年)– リーフデ号の乗員として、ウィリアム・アダムスが渡来[17]。
17世紀
[編集]- 元和5年(1619年)– ブリュッセル出身のフランソワ・カロンが平戸に来航[21]。第8代オランダ商館長。のちにフランス国籍を取得してフランス東インド会社の社長となり、日本との貿易も計画するが実現せず。
- 元和5年(1619年)頃– この年オランダ東インド会社バタヴィアに商館設立。このころからオランダ人の奴隷としてインドネシア系の人々が来日するようになる[22]。
- 正保4年(1647年)– スウェーデン出身のオランダ東インド会社社員ヨーハン・オーロフソン・ベリエンシェーナが来日[24]。同年(3ヶ月後)に来日したフレデリック・コイエットは第16代、第21代のオランダ商館長を務めている[25]。
18世紀
[編集]- 元文4年(1739年)– 元文の黒船。デンマーク出身のマルティン・シュパンベルグに率いられたロシアの船団が本州に来航。ロシア人船員が上陸し現地民と交流[27]。
- 明和7年(1770年)– イエルキ・アンドラーシュが出島に滞在[28]。
- 明和8年(1771年)– モーリツ・ベニョヴスキーが捕虜となって抑留されていたカムチャッカ半島から脱走して阿波国に来航[29]。ベニョヴスキーはハンガリー生まれだが、ポーランドの反ロシア組織に属し、ポーランド人とも称していた。この事件をきっかけに工藤平助が赤蝦夷風説考を著す。
- 17世紀 - 司馬江漢が、長崎に赴いた時の事を記した「西遊日記(1788年)」にて、出島にいたヨーロッパ人の召使いとして来日していた黒人について書いている。これによると「此黒坊と云は…ヤハ嶋の者、或はアフリカ大州の中モノモウタアパと云処の熱国の産れなり」とあり、ジャワ島の名や、当時のジンバブエの地にあった「モノモタパ王国」の名を残している[30]。
- 寛政3年(1791年)– アメリカ人探検家ジョン・ケンドリックが交易のため紀伊半島に上陸[31]。
19世紀
[編集]- 慶応2年(1866年)– エドゥアルド・スエンソンがフランス海軍軍人として駐留。『江戸幕末滞在記』[33]を出版。明治期に再来日し、日本最初の海底電信ケーブルの敷設の責任者となった。
脚注
[編集]- ^ 「蘇那曷叱知」『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 9784642014588。
- ^ 舎人親王 著「弓月君・阿直岐・王仁」、宇治谷孟 編『日本書紀(上) 全現代語訳』講談社〈講談社学術文庫〉、1988年。ISBN 4061588338。
- ^ 舎人親王 著「難波の高麗使人」、宇治谷孟 編『日本書紀(下) 全現代語訳』講談社〈講談社学術文庫〉、1988年。ISBN 4061588346。
- ^ “平城宮にペルシャ人の役人が働いていた!! 765年木簡が証明 「国際的知識で登用か」と専門家(1/2ページ)”. 産経WEST. (2016年10月5日)
- ^ 『続日本紀』巻第十二 天平八年八月庚午条。「入唐副使從五位上中臣朝臣名代等、率唐人三人波斯人一人拜朝」。
- ^ 中村元 編『日本の名著 2 聖徳太子』中央公論社、1970年、464頁。
- ^ “林邑楽(りんゆうがく)とは”. コトバンク. 2019年5月30日閲覧。
- ^ “「林邑楽」1300年ぶりの“里帰り” 春日大社の雅楽団がベトナム初公演”. 産経新聞. (2014年3月22日)
- ^ 「熊山遺跡の考察」(PDF)『会報熊山の石ふみ』第17号、熊山遺跡群調査・研究会、2014年7月。[要ページ番号]
- ^ 『五代帝王物語』亀山院「(文永)同六年蒙古使高麗の舟にのりて又對馬國に着く。去年の返牒なきによりて。左右きかんため也。不慮の喧嘩いできて。歸國の間。對馬の二人とられて高麗へ渡る。高麗より蒙古へつかはしたれば。王宮へ召入て見て。種々の祿をとらせて。本朝へ返送。是に付て又牒状有。」(塙保己一編『群書類従』第三輯 帝王部 巻第三十七 続群書類従完成会 1960年 449頁)
- ^ 『高麗史』46巻参照。"王引見勞之對曰: "戊辰年受命發船至日本留一年今日至貴國得見殿下頓忘行役之勞.""
- ^ 南浦文之『鉄炮記』。ウィキソースより閲覧。
- ^ 岸野久「エスカランテ報告の日本情報-フレイタスとディエスの琉球・日本情報」『西洋人の日本発見』吉川弘文館、1989年所収。
岸野久「第二章 エスカランテ報告の日本情報-フレイタスとディエスの琉球・日本情報」『キリシタン開教期の研究』 立教大学〈博士 (文学) 乙第171号〉、2000年。doi:10.11501/3170226。 NAID 500000191104 。 - ^ 浅香武和「ペロ・ディエスの九州見聞記について」京都セルバンテス懇話会編『イスパニア図書』第2号、1999年参照。
- ^ 藤田みどり(Japanese)『アフリカ「発見」日本におけるアフリカ像の変遷 [Discover Africa―History of African image in Japan (World History series)]』岩波書店、2005年、1-2頁。ISBN 978-4000268530。
- ^ “オルガンティーノ おるがんてぃーの Gnecchi-Soldo Organtino(1530/33―1609)”. 日本大百科全書. 小学館. 2018年10月13日閲覧。
- ^ a b 森良和「「ディルク・シナ」と日本」『論叢:玉川大学教育学部紀要』第2012巻、玉川大学、2013年3月、103-119頁、CRID 1050003824837535872、hdl:11078/75、ISSN 1348-3331、NAID 120006868298。
- ^ Monumenta Nipponica. Jōchi Daigaku. Sophia University. (2004). p. 465
- ^ “出島復元記念講演会 @オランダ王国大使館出島ルーム”. オランダ友好協会. 2018年10月20日閲覧。
- ^ 平野耿「鎖国が生んだ日系ドイツ人-ペーター・ハルツィング」『東洋大学会報』第225号、2005年11月、 オリジナルの2013年8月27日時点におけるアーカイブ。
- ^ Willem Otterspeer (2003). Leiden Oriental Connections: 1850-1940. BRILL. p. 355
- ^ “オランダ友好協会 出島復元記念講演会 @オランダ王国大使館出島ルーム”. 2018年10月20日閲覧。
- ^ “Vie et martyr de saint Guillaume Courtet Saint Guillaume Courtet Vie et martyr”. Saint Guillaume Courtet. 2018年10月20日閲覧。
- ^ “深まる両国の絆 -日スウェーデン外交関係樹立150周年”. 外務省. 2018年10月20日閲覧。
- ^ * 延岡繁「日本に初めて来たスウェーデン人フレデリック・コイエットの人生 (1) - (原作) グンナル・ムレーン」『人文学部研究論集』第5巻、中部大学人文学部、2001年1月、127-204頁、CRID 1050001338549226624、ISSN 1344-6037。
- 延岡繁「日本に初めて来たスウェーデン人フレデリック・コイエットの人生 (2) - (原作) グンナル・ムレーン」『人文学部研究論集』第6巻、中部大学人文学部、2001年7月、43-111頁、CRID 1050282813525940352、ISSN 1344-6037。
- 延岡繁「日本に初めて来たスウェーデン人フレデリック・コイエットの人生 (3) - (原作) グンナル・ムレーン」『人文学部研究論集』第8巻、中部大学人文学部、2002年7月、23-67頁、CRID 1050001338549231360、ISSN 1344-6037。
- 延岡繁「日本に初めて来たスウェーデン人フレデリック・コイエットの人生 (4) - (原作) グンナル・ムレーン」『人文学部研究論集』第9巻、中部大学人文学部、2003年1月、109-158頁、CRID 1050282813525944704、ISSN 1344-6037。
- 延岡繁「日本に初めて来たスウェーデン人フレデリック・コイエットの人生 (5) - (原作) グンナル・ムレーン」『人文学部研究論集』第10巻、中部大学人文学部、2003年7月、133-175頁、CRID 1050564288502658432、ISSN 1344-6037。「結局どの文献の何ページが出典なのかは明確になっていません。」
- ^ “日本のアイルランド・コミュニティーの313年”. アイリッシュ・ネットワーク・ジャパン. (2012年5月1日) 2019年6月9日閲覧。
- ^ コラー・スサンネ「安永年間のロシア人蝦夷地渡来の歴史的背景」『スラヴ研究』第51巻、北海道大学スラブ研究センター、2004年、391-413頁、CRID 1050001339001053056、hdl:2115/39064、ISSN 0562-6579。
- ^ “天皇皇后両陛下 ポーランド・ハンガリーご訪問(チェコ・オーストリアお立ち寄り)時のおことば・ご感想”. 宮内庁. 2019年5月30日閲覧。
- ^ 渡辺京二『黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志』洋泉社、2010年。ISBN 9784862485069。[要ページ番号]
- ^ “アフリカの日本、日本のアフリカ 第2章 日本に渡ったアフリカ人”. 国立国会図書館. 2019年10月21日閲覧。
- ^ Arthur Walworth (1946). Black ships off Japan; the story of Commodore Perry's expedition. Alfred A. Knopf[要ページ番号]
- ^ “日本・スイス国交樹立150 周年記念 「日本とスイスの150年-そして?」”. 在スイス日本国大使館. 2018年10月20日閲覧。
- ^ エドゥアルド・スエンソン著・長島要一訳『江戸幕末滞在記』講談社 2003年、ISBN 978-4061596252