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七姓漢人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

七姓漢人(しちしょうかんじん)は、応神天皇の時代に阿知使主とともに日本帰化した漢人。朱・李・多・皀郭・皀・段・高の7つの姓があった。単に七姓とも表記される。

渡来伝承

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阿知使主(阿知王)については『日本書紀』『続日本紀』『新撰姓氏録』などに日本への帰化についての記録がある。『日本書紀』によれば、応神天皇20年9月、倭漢の祖の阿智使主と、その子都加使主が、17県の党とともに帰化した。しかし、この時期には漢氏(東漢氏)の祖だという記録は存在しなかった。

続日本紀』延暦四年(785年)六月の条によれば坂上苅田麻呂は自ら権威を与えるために阿智王の末裔氏族東漢氏出身を称し、漢氏(東漢氏)の祖・阿智王は東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきたと述べた[1]

右衞士督從三位兼下総守坂上大忌寸苅田麻呂等上表言。臣等本是後漢靈帝之曾孫阿智王之後也。漢祚遷魏。阿智王因牛教。出行帶方。忽得寳帶瑞。其像似宮城。爰建國邑。育其人庶。後召父兄告曰。吾聞。東國有聖主。何不歸從乎。若久居此處。恐取覆滅。即携母弟迂興徳。及七姓民。歸化來朝。是則譽田天皇治天下之御世也。於是阿智王奏請曰。臣舊居在於帶方。人民男女皆有才藝。近者寓於百濟高麗之間。心懷猶豫未知去就。伏願天恩遣使追召之。乃勅遣臣八腹氏。分頭發遣。其人民男女。擧落隨使盡來。永爲公民。積年累代。以至于今。今在諸國漢人亦是其後也。臣苅田麻呂等。失先祖之王族。蒙下人之卑姓。望 。改忌寸蒙賜宿祢姓。伏願。天恩矜察。儻垂聖聽。所謂寒灰更煖。枯樹復榮也。臣苅田麻呂等。不勝至望之誠。輙奉表以聞。詔許之。坂上。内藏。平田。大藏。文。調。文部。谷。民。佐太。山口等忌寸十一姓十六人賜姓宿祢。 - 続日本紀』延暦四年六月条

新撰姓氏録』「坂上氏条逸文」には、阿智使主と同時期の来日である七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・高)およびその子孫、桑原氏佐太氏等と、仁徳天皇の時代に阿智使主が朝鮮半島から連れてきたとされる村主氏が記されている[1]

七姓漢人

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「坂上系図」は『新撰姓氏録』第23巻を引用し、七姓について以下のように説明している[2]

  • 段 (古記には段光公とあり、員氏とも) - 高向村主、高向史、高向調使、評(こほり 郡)首、民使主首の祖。
  • 李 - 刑部史の祖。
  • 皀郭 - 坂合部首、佐大首の祖。
  • 朱 - 小市、佐奈宜の祖。
  • 多 - 檜前非調使の祖。
  • 皀 - 大和国宇太郡佐波多村主、長幡部の祖。
  • 高 - 檜前村主の祖。

百姓漢人

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また、阿知王は百姓漢人を招致し、その末裔には高向村主、西波多村主、平方村主、石村村主、飽波村主、危寸(きそ)村主、長野村主、俾加村主、茅沼山村主、高宮村主、大石村主、飛鳥村主、西大友村主、長田村主、錦部村主、田村村主、忍海村主、佐味村主、桑原村主、白鳥村主、額田村主、牟佐村主、田賀村主、鞍作村主、播磨村主、漢人村主、今来村主、石寸(いわれ)村主、金作村主、尾張の次角村主があるという[2]

居住地

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漢人族は大和国今来郡、のち高市郡檜前(ひのくま)郷に住んだ[3]。一時は9割が漢人族となり、漢人族の民忌寸、蔵垣忌寸、蚊屋忌寸、文山口忌寸らが天平元年(729年)から高市郡司に任ぜられた[3]。その後狭くなったので、摂津参河近江播磨阿波にも移住した[3]。ほかに美濃越前備中周防讃岐伊勢甲斐河内丹波美作備前肥前豊後にも住んだ[3][4]

末裔

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忌寸は「氏」と表記した。

  • 「坂上系図」によれば阿智使主の子・都加使主の長男・山木直からは民氏、檜原氏、平田氏、粟村氏、小谷氏、軽氏、夏身氏、韓口氏、新家氏、門氏、蓼原(たてはら)氏、高田氏、田井氏、狩氏、東文部氏、長尾氏、檜前氏、谷氏、文部谷氏、文部岡氏、路氏が出た[3]
  • 阿智王の次男・志努直からは、東漢費氏、成努氏が出た。
    • 志努直の長男阿素奈直は田部氏の祖となった[5]
    • 次男志多直からは黒丸、拾、倉門、呉原、斯佐、石占、くにまぎ[国+(爪の下に見)[6]]、井上、石村、林氏らの姓氏が出た[5]
    • 三男の阿良直からは、郡、榎井、河原、忍坂、与努、波多、長尾氏らが出た[5]
    • 四男の刀禰直からは畝火、荒田井、芸垣が出た[5]荒田井氏には都城建設時の官僚倭漢荒田井比羅夫がいる[7]
    • 五男の鳥直からは酒人氏が出た[5]
    • 六男の駒子直は宗家東漢氏を継いだ[5]
    • 七男の韋久佐直からは白石氏が出た[5]
  • 阿智王の三男の爾波伎直からは、山口氏、文山口氏、桜井氏[要曖昧さ回避]、調(つき)氏[8]谷氏、文氏、文池氏らが出た[3]

石占(いしうら)氏は摂津の倉人・蔵人氏とも同祖と伝わる[9]

脚注

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  1. ^ a b 伊藤信博「桓武期の政策に関する一分析(1)p.9.
  2. ^ a b 竹内理三『古代から中世へ』上、1978年,p12-13
  3. ^ a b c d e f 竹内理三『古代から中世へ』上、1978年,p10-11
  4. ^ 太田亮「姓氏家系大辞典」
  5. ^ a b c d e f g 竹内理三『古代から中世へ』上、1978年,p12
  6. ^ 「くにまぎ(国覓)」とは、国土開発の意味。竹内理三『古代から中世へ』上、1978年,p15。日本国語大辞典
  7. ^ 朝日日本歴史人物事典,kotobank,「倭漢荒田井比羅夫」
  8. ^ 竹内理三『古代から中世へ』上、1978年,p16
  9. ^ 新撰姓氏録摂津国諸蕃、日本国語大辞典

参考文献

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関連項目

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