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八上村 (鳥取県)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曳田村から転送)
やかみそん
八上村
廃止日 1955年3月28日
廃止理由 新設合併
国英村、河原町(初代)、八上村西郷村散岐村河原町
現在の自治体 鳥取市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中国地方山陰地方
都道府県 鳥取県
八頭郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 5.4 km2
総人口 1,180
[1]、1955年)
隣接自治体 鳥取市、河原町(初代)、国英村、西郷村、散岐村
八上村役場
所在地 鳥取県八頭郡八上村大字曳田
座標 北緯35度23分24秒 東経134度11分39秒 / 北緯35.39011度 東経134.19411度 / 35.39011; 134.19411座標: 北緯35度23分24秒 東経134度11分39秒 / 北緯35.39011度 東経134.19411度 / 35.39011; 134.19411
特記事項 座標は現在の八上地区公民館位置
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八上村(やかみそん)は、鳥取県八頭郡にあった自治体である。当初は曳田村(ひけたそん)と称した。1896年(明治29年)3月31日までは八上郡に属した。

概要

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現在の鳥取市河原町曳田・河原町天神原に相当する。千代川中流左岸に位置し、村域の南側を支流の曳田川が流れる。

八上の名は古事記神話の因幡の白兎に登場する売沼神社(めぬまじんじゃ)の祭神、八上比売にちなむとされる。また「ヤ」が土地、「カミ」が上流(または神)を表し、すなわち河川の上流域を意味するとも言われる[1][2]

曳田の名は曳が「ヒク」「ヒケ」で低湿地、すなわち曳田谷の低湿地とされる。平安時代には八上郡十二郷の1つである曳田郷の名が見え、曳田川流域一帯を郷域としていた[2]

藩政時代には鳥取藩領の八上郡曳田郷(ひけたのごう)に属する曳田村・天神原村があった[3]

沿革

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行政

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戸長

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  • 曳田村外16ヶ村連合戸長役場:上原善十郎[3][10]
    管轄区域:曳田村・天神原村(後の曳田村)、佐貫村・八日市村・和奈見村(後の佐貫村)、水根村・山上村・小倉村(後の宇戸村)、中井村・本鹿村・牛戸村・神馬村・小河内村(後の五総村)、湯谷村・小畑村・弓河内村・北村(後の明治村)[3][11]

歴代村長

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氏名 就任年月日 退任年月日 備考
市村国蔵 1894年(明治27年)1月 1902年(明治35年)2月
田淵兵太郎 1902年(明治35年)2月 1902年(明治35年)12月
鳥越庄太郎 1903年(明治36年)1月 1907年(明治40年)1月
倉信辰太郎 1907年(明治40年)1月 1911年(明治44年)1月
田村乕蔵 1911年(明治44年)2月 1912年(明治45年)3月
倉信藤蔵 1912年(明治45年)4月 1913年(大正2年)1月
田村乕蔵 1913年(大正2年)1月 1919年(大正8年)10月
田村縫之輔 1919年(大正8年)12月 1922年(大正11年)1月
田村松蔵 1922年(大正11年)3月 1929年(昭和4年)12月
倉信辰太郎 1930年(昭和5年)1月 1930年(昭和5年)8月
倉信一雄 1930年(昭和5年)8月 1932年(昭和7年)9月
松田定吉 1932年(昭和7年)9月 1939年(昭和14年)8月
倉信隆蔵 1939年(昭和14年)8月 1940年(昭和15年)3月
倉信一雄 1940年(昭和15年)3月 1940年(昭和15年)5月
西尾駒蔵 1940年(昭和15年)9月 1943年(昭和18年)5月
田淵盈宇 1943年(昭和18年)5月 1946年(昭和21年)11月
倉信隆蔵 1947年(昭和22年)4月 1949年(昭和24年)4月
鳥越政憲 1949年(昭和24年)5月 1955年(昭和30年)3月27日
参考文献 - [3][6]

教育

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脚注

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関連項目

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