春日學
春日 學 (かすが まなぶ、1915年(大正4年)12月19日 - 1993年(平成5年)2月5日)は、昭和期の音楽家であり、全日本吹奏楽連盟理事長、日本吹奏楽指導者協会会長を務めた。名が 学 と表記されることもある。
経歴
[編集]昭和7年(1932年)横須賀海兵団軍楽隊入隊。チューバを担当する。昭和12年(1937年)海軍省委託学生として東京音楽学校(現東京芸術大学)で学び、昭和14年(1939年)修了。その後も昭和18年(1943年)まで学び続ける。昭和20年(1945年)横須賀海兵団軍楽隊の教官(階級は海軍軍楽兵曹長)で終戦を迎える。
戦後、昭和28年(1953年)に大臣官房人事部の技術嘱託職員として郵政省に採用され、郵政中央吹奏楽団の指揮者に就任し、昭和38年(1963年)まで指導する。この期間中、郵政中央吹奏楽団のほか、諏訪精工舎吹奏楽団、千修吹奏楽団[注 1][注 2]など職場バンドの指導と指揮を務め、吹奏楽コンクールに出場する。全日本吹奏楽コンクールには、郵政中央吹奏楽団を2回、諏訪精工舎吹奏楽団を1回導く。
その後、東京都吹奏楽連盟[注 3]や東京都職場吹奏楽連盟[注 4]等の設立[6]、全日本吹奏楽連盟の社団法人化[7][注 5]、東南アジア吹奏楽指導者協会(現アジア・太平洋吹奏楽指導者協会)の設立に関わり尽力した。昭和45年(1970年)JBAアメリカ吹奏楽視察団の一員としてミッドウェスト・クリニックに参加し、ミッドウエスト・ディレクターズ・オーケストラの客演指揮者を務めた。 全日本吹奏楽連盟や日本吹奏楽指導者協会などの吹奏楽関連団体の要職を務め、日本のみならずアジア、環太平洋地域の吹奏楽の発展に寄与した。
平成5年(1993年)2月5日、逝去。
略歴
[編集]- 昭和40年(1965年) - 昭和47年(1972年) 東京都吹奏楽連盟理事長
- 昭和48年(1973年)1月 - 昭和60年(1985年)3月 日本吹奏楽指導者協会理事長
- 昭和48年(1973年) - 昭和57年(1982年) 全日本吹奏楽連盟会長
- 昭和53年(1978年) - 平成5年(1993年)2月アジア・太平洋吹奏楽指導者協会初代会長
- 昭和58年(1983年)5月 全日本吹奏楽連盟名誉会長
- 昭和58年(1983年) - 平成5年(1993年)2月 アメリカ吹奏楽指導者協会名誉会員[8]
- 昭和60年3月(1985年) - 平成5年(1993年)2月 日本吹奏楽指導者協会(JBA)第7代会長
主な受賞
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 昭和34年(1959年)発足 - 千修
- ^ 印刷会社の株式会社千修の初代会長 下谷修久は、戦時中、招集水兵として春日の従兵として勤務していた。昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲後、下谷は神田にあった自分の営む印刷工場を心配する。当時、自由に外出できる立場ではなかった下谷は春日の配慮のお陰で春日の従兵として外出し工場を見に行くことができた。終戦後、下谷が得意先の富士製鐵の都市対抗野球の応援に後楽園に行ったところ、春日が指揮する郵政中央吹奏楽団が北海道の富士製鐵室蘭硬式野球部の応援演奏をしていた。一般席の下谷が応援席に行くことはできなかったので、下谷が警備員に懇願することで一時的に応援席への入場を認められ、春日との劇的な再会を果たした。その後、下谷は千修に春日を招聘し、千修吹奏楽団を設立した。藤田玄播『JBA 日本吹奏楽指導者協会 40年史』(初)日本吹奏楽指導者協会、2006年6月24日、9-10頁。 杉山頴司「忘れてはならないこと」
- ^ 昭和33年(1958年)5月8日に東京都吹奏楽連盟設立準備委員会が結成され、委員に就任する。同年7月2日郵政省大講堂において東京都吹奏楽連盟結成式が行われた。
- ^ 昭和36年(1961年)5月27日に朝日新聞東京本社会議室において東京都吹奏楽連盟の設立総会が開催され、専務理事に就任する。この総会で東京都吹奏楽連盟の下部組織として全国初の部門別連盟(東京都中学校、東京都高等学校、東京都大学、東京都職場、東京都一般)が設立された。
- ^ 昭和48年(1973年)4月1日社団法人全日本吹奏楽連盟の発足。社団法人化最初の全日本吹奏楽連盟理事長に就任する。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 牟田久壽「JBA創立50周年にあたって 公益社団法人 日本吹奏楽指導者協会 名誉会長 秋山紀夫」『JBA 日本吹奏楽指導者協会 50年史』、日本吹奏楽指導者協会、2016年6月18日、13頁。