旭村 (愛知県碧海郡)
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あさひむら 旭村 | |
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1917年の旭村 | |
廃止日 | 1948年4月5日 |
廃止理由 |
新規合併 |
現在の自治体 | 碧南市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中部地方、東海地方 |
都道府県 | 愛知県 |
郡 | 碧海郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
7,230人 (1947年10月1日) |
旭村役場 | |
所在地 | 愛知県碧海郡旭村 |
座標 | 北緯34度53分06秒 東経137度00分35秒 / 北緯34.88503度 東経137.00986度座標: 北緯34度53分06秒 東経137度00分35秒 / 北緯34.88503度 東経137.00986度 |
ウィキプロジェクト |
沿革
[編集]- 江戸時代末期、この地域は沼津藩領、天領、寺社領などであった。
- 1871年(明治4年) - 鷲塚村で廃仏毀釈に反対する暴動が発生する(大浜騒動)。
- 1906年(明治39年)5月1日 - 志貴崎村、伏見屋村、鷲塚村が合併し、旭村が発足。
- 1948年(昭和23年)4月5日 - 大浜町、新川町、棚尾町と合併して碧南市が発足。旭村は廃止される。
行政
[編集]- 明治の大合併では、当初、大浜村、北大浜村、棚尾村、鷲塚村、志貴崎村、伏見屋村が合併して「新浜町」として町制施行する計画であったという。しかし、鷲塚村、志貴崎村、伏見屋村は反対して3村で合併し、旭村となったことにより計画は幻となった。反対理由として、3村は主に農業で発展しており、他の町村とは産業などに違いがあることが挙げられる[1]。
- 昭和の大合併でも、大浜町、新川町、棚尾町は合併賛成であったが、旭村のみ保留の立場をとっている。合併への参加の賛否は1947年2月の住民投票で決定することになり、賛成610票、反対458票で賛成が過半数に達したため、正式に合併に参加となり、碧南市が誕生となった[1]。
経済
[編集]産業
[編集]- 農業
『大日本篤農家名鑑』によれば、旭村の篤農家は石原、片山、山田、小林、伊藤、多田、杉浦、市川などがいた[2]。
『大日本蚕業家名鑑 正』によれば、旭村の養蚕家は近藤、大岡、木村、鈴木、富田、河原、石原、服部、大村、河隈、山田、杉浦、竹内、黒田、榊原、伊藤、山田、山林、石橋、松本、宮地、高橋、小笠原、辻、石川、磯貝、竹中、金原、鈴木、牧野、磯見などがいた[3]。
教育
[編集]小学校
[編集]中学校
[編集]- 旭村立旭中学校 (現・碧南市立東中学校)
交通
[編集]神社・仏閣
[編集]- 天満神社(鷲塚)
- 天満社(神有)
- 神明社(荒子)
- 稲荷神社(伏見屋)
- 霞浦神社(平七)
- 稲荷神社(前浜)
- 願随寺(鷲塚)
- 遍照院(鷲塚)
- 池端蓮成寺(鷲塚)
- 川端蓮成寺(鷲塚)
- 応春寺(神有)
- 照光寺(神有)
- 等覚寺(荒子)
- 貞照院(伏見屋)
- 東正寺(平七)
- 平等寺(前浜)
出身・ゆかりのある人物
[編集]- 近藤坦平 - 医師。西洋医学教育の先駆けとなる医師。1929年(昭和4年)に村葬。
- 朝倉虎治郎 - 東京府多額納税者、米商[5]、東京府会議員、東京府会議長[6]。鷲塚の木綿商・杉浦太市の二男[6]。
- 朝倉八郎 - 東京市渋谷区猿楽町の地家主、米屋。朝倉虎治郎の実弟[6]。
脚注
[編集]- ^ a b 『広報へきなん』2016年2月15日号、7ページ
- ^ 『大日本篤農家名鑑』235頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年3月9日閲覧。
- ^ 『大日本蚕業家名鑑 正』大日本蚕業家名鑑(養蚕家)愛知県149 - 150頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年6月18日閲覧。
- ^ 海線の一部区間(碧南 - 吉良吉田)廃止により、2004年廃止。
- ^ 『日本紳士録 第47版』東京アの部15頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年2月4日閲覧。
- ^ a b c 『三河知名人士録』291、298頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年2月4日閲覧。
参考文献
[編集]- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 扶桑社編『大日本蚕業家名鑑 正』扶桑社、1913 - 1917年。
- 久米康裕編『三河知名人士録』尾三郷土史料調査会、1939年。
- 交詢社編『日本紳士録 第47版』交詢社、1944年。