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日野資康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
日野資康
時代 南北朝時代
生誕 貞治4年/正平3年(1348年
死没 明徳元年/元中7年8月10日1390年9月19日
別名 裏松資康
官位 従一位権大納言
主君 後円融天皇後小松天皇
氏族 藤原北家真夏日野家
父母 父:日野時光
兄弟 資康業子資教日野西資国
池尻殿
康子重光烏丸豊光栄子
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日野 資康(ひの すけやす、貞治4年/正平3年〈1348年〉 - 明徳元年/元中7年〈1390年〉)は、南北朝時代公卿藤原北家真夏日野家日野時光の次男。官位は従一位権大納言。「裏松」を家号として裏松 資康(うらまつ すけやす)と称した。室町幕府5代将軍足利義量は外孫にあたる。

経歴

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永和4年/天授4年(1378年3月正四位上左大弁蔵人頭頭弁)から左大弁兼参議に進み、同年12月13日従三位権中納言に任ぜられる。2年後に按察使を兼任。永徳元年/弘和元年(1381年)に正三位を経て従二位に叙され、翌永徳2年/弘和2年(1382年)には後円融院院執権になる。永徳3年/弘和3年(1383年)には按察使を辞して代わって左衛門督検非違使別当を兼ねる。

至徳元年/元中元年(1384年)に正二位に叙される。至徳3年/元中3年(1386年1月にに院執権を辞し、同年11月に権大納言に任ぜられる。嘉慶2年/元中5年(1388年)に一旦権大納言を辞しているが、明徳元年/元中7年(1390年)に再任される。8月に病が重く、同月9日に従一位に叙されるが、翌10日に死去した。

妹・業子と娘・康子が3代将軍・足利義満御台所となったことが急激な昇進につながり、同じく娘・栄子も資康の没後に4代将軍・足利義持の御台所となり、5代将軍・足利義量を生んでいる。日野家の家督は弟・資教が継ぎ、資康は裏松家を名乗ったが、文安5年(1448年)に玄孫・裏松勝光(8代将軍足利義政御台所日野富子の兄)が断絶した宗家を継承して子孫は日野家を家名としたことから、後世においては資康以降の裏松家の人々も「日野」と呼ばれることになる。

系譜

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参考文献

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  • 野島寿三郎 編『公卿人名大事典』日外アソシエーツ、1994年、p. 107。ISBN 978-4-8169-1244-3
  • 橋本政宣 編『公家事典』吉川弘文館、2010年、pp. 412, 417-418。ISBN 978-4-642-01442-7

関連文献

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  • 家永遵嗣, 水野圭士, 林哲民, タトヤン-ディミトリ, ほか「解説と翻刻 国立公文書館所蔵『初任大饗記』, 国立歴史民俗博物館所蔵『義満公任槐召仰議并大饗雑事記』 : 付 国立国会図書館所蔵『永享四七廿五室町殿御亭〈大饗指図〉』」『人文』第17号、学習院大学人文科学研究所、2019年3月、CRID 1050282677908099712hdl:10959/00004640ISSN 1881-7920 

関連項目

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