日野資康
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時代 | 南北朝時代 |
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生誕 | 貞治4年/正平3年(1348年) |
死没 | 明徳元年/元中7年8月10日(1390年9月19日) |
別名 | 裏松資康 |
官位 | 従一位・権大納言 |
主君 | 後円融天皇→後小松天皇 |
氏族 | 藤原北家真夏流日野家 |
父母 | 父:日野時光 |
兄弟 | 資康、業子、資教、日野西資国 |
妻 | 池尻殿 |
子 | 康子、重光、烏丸豊光、栄子 |
日野 資康(ひの すけやす、貞治4年/正平3年〈1348年〉 - 明徳元年/元中7年〈1390年〉)は、南北朝時代の公卿。藤原北家真夏流日野家、日野時光の次男。官位は従一位・権大納言。「裏松」を家号として裏松 資康(うらまつ すけやす)と称した。室町幕府5代将軍・足利義量は外孫にあたる。
経歴
[編集]永和4年/天授4年(1378年)3月、正四位上左大弁兼蔵人頭(頭弁)から左大弁兼参議に進み、同年12月13日に従三位・権中納言に任ぜられる。2年後に按察使を兼任。永徳元年/弘和元年(1381年)に正三位を経て従二位に叙され、翌永徳2年/弘和2年(1382年)には後円融院の院執権になる。永徳3年/弘和3年(1383年)には按察使を辞して代わって左衛門督・検非違使別当を兼ねる。
至徳元年/元中元年(1384年)に正二位に叙される。至徳3年/元中3年(1386年)1月にに院執権を辞し、同年11月に権大納言に任ぜられる。嘉慶2年/元中5年(1388年)に一旦権大納言を辞しているが、明徳元年/元中7年(1390年)に再任される。8月に病が重く、同月9日に従一位に叙されるが、翌10日に死去した。
妹・業子と娘・康子が3代将軍・足利義満の御台所となったことが急激な昇進につながり、同じく娘・栄子も資康の没後に4代将軍・足利義持の御台所となり、5代将軍・足利義量を生んでいる。日野家の家督は弟・資教が継ぎ、資康は裏松家を名乗ったが、文安5年(1448年)に玄孫・裏松勝光(8代将軍足利義政御台所日野富子の兄)が断絶した宗家を継承して子孫は日野家を家名としたことから、後世においては資康以降の裏松家の人々も「日野」と呼ばれることになる。
系譜
[編集]参考文献
[編集]- 野島寿三郎 編『公卿人名大事典』日外アソシエーツ、1994年、p. 107。ISBN 978-4-8169-1244-3。
- 橋本政宣 編『公家事典』吉川弘文館、2010年、pp. 412, 417-418。ISBN 978-4-642-01442-7。
関連文献
[編集]- 家永遵嗣, 水野圭士, 林哲民, タトヤン-ディミトリ, ほか「解説と翻刻 国立公文書館所蔵『初任大饗記』, 国立歴史民俗博物館所蔵『義満公任槐召仰議并大饗雑事記』 : 付 国立国会図書館所蔵『永享四七廿五室町殿御亭〈大饗指図〉』」『人文』第17号、学習院大学人文科学研究所、2019年3月、CRID 1050282677908099712、hdl:10959/00004640、ISSN 1881-7920。