薬研堀 (東京都)
薬研堀(やげんぼり)は、現在の東京都中央区東日本橋にかつて存在した運河であり、堀周辺の通称地名でもあった。
流路
[編集]現在の地名では全流路が東日本橋内にある。隅田川より二丁目10番地の中央区立日本橋中学校内を南西に直進し、9番地で北西に折れ、一丁目に至った。過去の地名では、薬研堀町、米沢町などを通った。
名称の由来
[編集]堀底の形状がV字型であり、薬研の窪みに似ていることに由来する一般的な名称である。現在でも広島市などに同名の地名が残る。
歴史
[編集]正保年間に矢ノ倉と称する米蔵が置かれ、薬研堀は矢ノ倉に至るL字型の入堀として開削された。1698年(元禄11年)、米蔵が火災を契機に築地に移転すると、1771年(明和8年)、薬研堀は大半が埋め立てられ、10m程の直線部が残されるのみとなった。埋め立てた部分には町屋が起立し、薬研堀埋立地と称された。医者が集住したため医者町と通称されたという。七味唐辛子の発祥地としても有名である[1]。
1872年(明治5年)、薬研堀埋立地と周辺の武家地を合わせて薬研堀町が起立する。1903年(明治36年)には市区改正による公園整備のため薬研堀は完全に埋め立てられ(実際は小学校が整備された)、堀としては消滅したが、地名としては残った。1947年(昭和22年)より中央区日本橋薬研堀町となるが、1971年(昭和46年)、住居表示により周辺の町を合わせて東日本橋とされ、地名としても消滅した。
現在堀の面影は全くなく、薬研堀不動院や商店会などに名を残すのみである。
橋梁
[編集]尼が橋
[編集]中程に架かっていた橋。袂に物乞いの尼が居座っていたことによる。明和の埋立の際に消滅した。
元柳橋
[編集]堀が隅田川に接する部分に架かっていた橋で、古くは難波橋と呼ばれた。たもとに立つ柳の大樹にちなみ柳橋と通称されていたところ、後に神田川にも同名の橋が架かったため「元」を冠したとされる[2]。葛飾北斎、歌川広重、小林清親など様々な画家により題材とされている。それらの作品中、北詰に柳の大木が描かれており、これが「柳」の由来と考えられる。
脚注
[編集]- ^ 元祖とされる「やげん堀」は現在は浅草新仲見世で営業を続けている。
- ^ 木村荘八は『柳橋考』においてこれを俗説であるとし、「元」は元両国の「元」であると主張している。元両国とは、両国橋が1744年(延享元年)上流に移設された後、もとあった場所を俗称したものである。
関連文献
[編集]- 斎藤長秋 編「巻之一 天枢之部 薬研堀」『江戸名所図会』 一、有朋堂書店〈有朋堂文庫〉、1927年、112-113頁。NDLJP:1174130/62。
関連項目
[編集]- 薬研堀 (曖昧さ回避)
- 薬研堀不動院
- 池田泰真 - 幕末から明治にかけての漆芸家・蒔絵師。薬研堀に住み、その流派は薬研堀派と呼ばれた。