日本学協会
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日本学協会は、日本学に関する研究・普及を行う財団法人であり、雑誌『日本』、学術誌『藝林』の発行、講演会の開催、図書の刊行などの事業を行っている[1]。
沿革
[編集]日本学協会発起人の研究者たちは、昭和初期から日本学の研究を行ってきたが、昭和20年以降の日本の混迷は、日本学の研究と普及の必要を痛感せしめ、日本学に関する学会の設立、機関紙の発行などが関係者で協議され、昭和25年に『藝林』の創刊、学術研究会「藝林会」の発足、昭和26年に月刊『桃李』の創刊、日本学の普及を図る組織「桃李会」の設立、昭和29年から講習会が大阪府南河内郡千早赤阪村において開催され、それ以降、毎年8月に定期的に開催される[2]。
事業
[編集]設立の趣旨
[編集]日本学は、日本および日本人を総合的に研究する学として、すでに古い伝統を有する。日本文化発展の過程において吸収された大陸文化・西欧文化の影響は、日本人の思惟および文化を極めて複雑多様ならしめた。日本学はその多様性を歴史的現実として認めつつも、さらに一歩を進めて、日本固有の性格が外来文化の影響下にいかなる変容をうけ発展したかを、その時々の歴史的背景に着目しつつ日本文化の本質析出することによって、今後の日本および日本人の独立性と発展の方向を見究め、かつ確立しようとする。したがって、研究の対象と方法および領域は、近代科学のうち、人文・社会両科学の分野にわたる。ただしこれら既成科学の特定分野を通して個別的に分析し、その成果を帰納する方法によることはいうまでもないが、それのみでは、部分的・一面的・外面的把握に終るおそれなしとしない。この欠陥の反省に基づき、日本学は、直接日本および日本人そのものを研究の対象として、これを総合的、全体的、さらに内面的に把握せんがために、論究をすすめることをもって特徴とする。わが国の学芸史上特異の地位を占めている江戸時代に、崎門学・武教・水戸学・国学などの諸学が並び立って、危機における日本人の自覚的回心に貢献したことは周知のところであるが、それら諸学の研究の中には、谷泰山の如く「日本の学」と称した人もあらわれた。これらはまさに日本学の先達といってよい。ただその後、明治開化と共に移入された西欧の学術・宗教等の影響によって、日本および日本人の個性・固有文化・独自性は、その所在を明確に自覚することが困難を加えるやうになった。ここに日本学はますますその必要性を痛感されるに至った。協会発起人等はここに思いをいたし、すでに数年前から日本学の研究に着手し、その成果を発揮するために学術雑誌「藝林」、啓蒙雑誌「日本」を発行する等、その発展と普及に努力してきたが、より一層の発展を期するため、財団法人日本学協会を設立しようとするものである。
-日本学協会[2]
設立準備委員会の役員
[編集]理事
[編集]監事
[編集]日本学協会役員一覧
[編集]理事長
[編集]常務理事
[編集]理事
[編集]監事
[編集]脚注
[編集]- ^ “一般財団法人 日本学協会”. 日本学協会. 2017年11月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年11月30日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k “一般財団法人 日本学協会”. 日本学協会. 2017年11月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年11月30日閲覧。
- ^ a b c d “一般財団法人日本学協会” (PDF). 一般財団法人日本学協会. 2017年11月30日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “一般財団法人 日本学協会”. 日本学協会. 2017年10月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年11月30日閲覧。