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日本テレビ動画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日放映動画スタジオから転送)
日本テレビ動画株式会社
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
新潟県新潟市花園2丁目1番16号(登記上の本社所在地)
東京都中野区野方一丁目40番10号
五十嵐ビル[1]5階(東京スタジオ)
設立 1971年(昭和46年)11月
業種 情報・通信業
事業内容 アニメーションの企画・制作
代表者 渡邊清(新倉雅美
関係する人物 稲庭左武郎(登記上の代表取締役)
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日本テレビ動画にっぽんテレビどうが[要出典]1971年11月設立 - 1973年9月30日解散)は、かつて存在していたアニメ制作プロダクション。本項ではその前身にあたる日放映動画スタジオ(1966年[2] - 1968年)および、東京テレビ動画(1968年 - 1971年)についても記す。

概要

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代表作に日本テレビ初の国産テレビアニメシリーズ『戦え!オスパー』や『週刊少年ジャンプ』原作アニメ第1号の『男一匹ガキ大将』をはじめとする日本テレビ系平日夕方放送の帯アニメ谷岡ヤスジ原作の長編アニメーション映画ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』、藤子不二雄原作の『ドラえもん』(第1作)等があり、下記の通り前身会社が設立当時日本テレビと専属契約を結んでいたためか同社との関係が深かったが、子会社ではなく、資本関係はなかった模様。社名も「日本テレビ」+「動画」ではなく、実際は「日本」+「テレビ動画」を意味していた。

ルーツは「国映株式会社」という教育映画ピンク映画を製作していた制作プロダクションが、1965年頃に同社のテレビ製作部門だった日本放送映画の中に、日本テレビ専属のアニメ制作部門を立ち上げたことである[3]1966年には、このアニメ制作部門は日本放送映画の関連会社である有限会社日放映動画スタジオとして独立した[3]。中心人物は、東京ムービー出身の岡本光輝新倉雅美(別名・渡邊清)だった[3]。しかし、『冒険少年シャダー』で納品数が不足するトラブルを起こしたことがあり、それがきっかけで新たに新倉が東京テレビ動画狛江市に立ち上げたという[3]

東京テレビ動画は、引き続き日本テレビ製作のアニメを独占した[4]。当時東京テレビ動画は専属のアニメーターを置かず、外部のスタジオ等と契約して制作していたという[4]。フリーの演出家だった富野喜幸(現・富野由悠季)は、当社制作の『夕やけ番長』で監督としてのデビューを果たしている[5]。『赤き血のイレブン』の監督を務めた岡迫亘弘は、「新倉は金払いが悪いことで有名だったから、有名な人やベテランは寄りつかない。だからこそ、逆に新人が活躍できたんだろうね」と述べている[6]

1971年には新潟市にもスタジオを開設するが、日本テレビと東京テレビ動画の間に金銭的な不祥事が起こり、東京テレビ動画は1971年春以降日本テレビから仕事を干されてしまう[7]。岡迫の証言によれば、日本テレビ側のプロデューサーである藤井賢祐が新倉の贈与の見返りに発注していたことが日本テレビに発覚したため、発注がなくなったという[7]。なお同時期に放送されていた『巨人の星』や『タイガーマスク』のアニメ企画がキー局の日本テレビでは採用されず、代わりに関西の準キー局よみうりテレビで採用されていた背景には、藤井が東京テレビ動画の企画を優先して自局に通す一方で、東京ムービー東映動画など他社の企画を門前払い同然で却下していた事情がある[8][9]

その後、代表取締役である新倉は起死回生を狙って映画配給会社との契約未定のまま映画製作に乗り出し、谷岡ヤスジ原作の劇場用アダルトアニメヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』を日本ヘラルド映画(現・KADOKAWA)の配給で社運を賭けて制作・上映するが、興行は大失敗に終わる[7]

そして、新潟スタジオを拠点として1971年11月に再々度立ち上げられた会社が日本テレビ動画である[7]。代表取締役の稲庭左武郎は新潟総合テレビ(現・NST新潟総合テレビ)の役員で[10][11]、また新倉自身も新潟県出身で田中角栄とつながりがあったという報道もあり[12]、新潟の政財界と関係があったとされる。なお吉川惣司は、稲庭が「お金を出すだけ」の出資者であったと述べている[13]

1972年4月にTBS系列で放送を開始した『アニメドキュメント ミュンヘンへの道』を制作してテレビアニメに復帰し、同時に制作の利便のために東京都中野区にもスタジオを設置した[13]。だが、後番組の『モンシェリCoCo』は放送中にクレジットからプロデューサーの渡邊(新倉)の名前が消えたうえ、1クールで打ち切りとなり、新倉自身も1972年10月9日付で登記上取締役を辞任するなど、トラブルの存在をうかがわせる現象が起きている[13]

1973年に再び藤井賢祐の企画で日本テレビを放送局とする『ドラえもん』がスタートすると、本社を新潟から東京へと移したとされるが、登記上は最後まで新潟市が本社であった[10]。同作の収益は黒字で、東京テレビ動画時代からの赤字を補填できる目途がついたとされるが[14]、その矢先に新倉が突然失踪する[15]。本作の制作に関わった元スタッフの下崎闊(真佐美ジュン)によると、後を継いだ会長も経営に関心がなくほどなく解散[16][17]、日本テレビ動画はわずか2年弱で廃業、『ドラえもん』も急遽打ち切りとなり、日本テレビ動画は名実ともに消滅した。失踪した新倉は1986年に拳銃密輸で逮捕されたが、その後の消息はわかっていない[18]

日本テレビ動画解散後、元スタッフらは田無市西原のアパートに日本テレビ動画の労働組合を作り、失業保険を受け取りながら管財人との交渉の拠点としていた[19]。その後、元スタッフらは就職先が決まったり、アニメの仕事を廃業して田舎に帰ったりしていたので、日本テレビ動画の労働組合は1975年3月に活動を終結した[19]。ちなみに2016年時点において、かつて日本テレビ動画の東京スタジオが在所していた五十嵐ビルは現存している[20]

日本テレビ動画が制作したアニメ作品は1~2クール(3か月~半年)以内で終了する作品が多かった。これは視聴率が取れなかったということもあるが、旧東京テレビ動画時代からの体質でもあった[21]

なお日本放送映画・東京テレビ動画・日本テレビ動画が制作した諸作品の中には、いまだに著作権の帰属元がはっきりしていなかったり、フィルムの所在が不明なものもある(後述)。

作品リスト

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特記のある作品以外は日本テレビ系で放送。

日本放送映画時代

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東京テレビ動画時代

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日本テレビ動画以降

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スタッフ経験者(既出以外)

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作品のビデオソフト化・再放送・ネット配信

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後述する『ドラえもん』など一部を除く日本放送映画→東京テレビ動画→日本テレビ動画の作品に関しては、多くがビデオソフト化・再放送・ネット配信が行われており、現在でも同社から作品の著作権を引き継いで管理している者が存在するとみられる[24]

男どアホウ!甲子園』は1987年にバップから全2巻のVHSソフトが発売されている。その後『赤き血のイレブン』が1994年にバップから全話収録のVHSソフト全9巻が発売(2002年にラインコミュニケーションズから全12巻でVHS・DVD化)、2012年にはAT-Xで再放送が行われた。またAT-Xでは『男一匹ガキ大将』も2011年に再放送が行われ、2018年にはベストフィールドから初ソフト化となるDVD-BOXが発売された。また未ソフト化作品に関しても『モンシェリCoCo』が1990年代にキッズステーションで再放送されたことがある。

谷岡ヤスジ原作の劇場用作品『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』はIMAGICAネガフィルムが発見され、原作者の著作権継承者の意向でニュープリントが作成された。その後はゆうばり国際ファンタスティック映画祭2005東京国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)の上映企画「発掘された映画たち2018」などで再上映され、2019年には幻の映画復刻レーベルDIGから初ソフト化されている。

1989年に株式会社ハミングバードから発売されたアニメ主題歌集ソフト『マニア愛蔵版 懐かし〜いTVアニメテーマコレクション』(LD・VHS)には、他社作品と共に『戦え!オスパー』『とびだせ!バッチリ』『冒険少年シャダー』『夕やけ番長』『男一匹ガキ大将』『赤き血のイレブン』『男どアホウ!甲子園』『アニメドキュメント ミュンヘンへの道』『モンシェリCoCo』のオープニング映像が収録されている。

『ドラえもん』については、本放送終了後も複数の局でたびたび再放送が行われていたが、1979年にテレビ朝日系でシンエイ動画[25]版の『ドラえもん』の放送が開始されると、原作者や原作漫画の出版元の小学館および製作局のテレビ朝日の意向で、日本テレビ動画版の『ドラえもん』の再放送は行われなくなった[26]。元スタッフの真佐美ジュンによると、フィルムは日本テレビで7年間保管されていたというが[16]、その後、行方不明となった。2000年代になって、真佐美がラッシュフィルムなど8話分を所持していたことが判明したほか、1995年にIMAGICAで最終回を含む後半16話分のネガフィルムが発見されていたことが安藤健二の調査・取材で明らかになったが、ネガフィルムの権利所有者は不明のままだという[27]

脚注

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  1. ^ ビル名は後に「小沢ビル」→「野方ビル」と名称変更している。
  2. ^ ただし、母体となった日本放送映画社の中にアニメ制作部門が発足したのは後述の通り1965年である。
  3. ^ a b c d 安藤、2008年、p.66 - 67
  4. ^ a b 安藤、2008年、pp.68 - 69
  5. ^ 安藤、2008年、pp.85 - 86
  6. ^ 安藤、2008年、p.87
  7. ^ a b c d 安藤、2008年、pp.70 - 73
  8. ^ アンド・ナウの会『僕らを育てたシナリオとミステリーのすごい人4 辻真先インタビュー』2017年8月
  9. ^ 日本テレビの故・藤井賢祐プロデューサーをめぐる1970年代前半のテレビ裏事情について”. Togetter (2019年11月10日). 2019年11月11日閲覧。
  10. ^ a b 安藤、2008年、p.56
  11. ^ 当時新潟総合テレビはフジテレビをメインにNETテレビ(現・テレビ朝日)・日本テレビと系列関係にあった。ただし、日本テレビ動画に改組後の作品は系列および番組編成の関係上、新潟放送(BSN・TBS系列)放送されていた。
  12. ^ 安藤、2008年、p80
  13. ^ a b c 安藤、2008年、p.75 - 76。吉川は稲庭を「会長」、新倉を「社長兼プロデューサー」と呼んでいる。
  14. ^ 安藤、2008年、pp.64 - 65
  15. ^ 安藤、2008年、p.61
  16. ^ a b 旧ドラえもん製作者証言(個人サイトの真佐美ジュンインタビュー)
  17. ^ ここに言及のある「会長」は、『封印作品の憂鬱』における真佐美ジュンや吉川惣司へのインタビュー(同書p.65、75)から、代表取締役の稲庭左武郎を指すとみられる。
  18. ^ 安藤、pp.78 - 79
  19. ^ a b ドラえもん - 真佐美ジュンブログ
  20. ^ 「日本テレビ版ドラえもん」でお馴染みの日本テレビ動画が入っていた雑居ビルに行ってきたよ日記 - 原子おはじき
  21. ^ 半年は本放送で残り半年はリピート(再放送)。
  22. ^ 記憶のかさブタ「幻のパイロットフィルム特集」
  23. ^ 赤塚不二夫保存会/フジオNo.1「日の目を見なかった?幻の日本テレビ動画版『天才バカボン』パイロット・フィルム」
  24. ^ 例として、後述する『男一匹ガキ大将』の場合、AT-Xでの再放送時の同局公式ページや、ベストフィールドのDVD-BOXの公式ページに記載されていた著作権表示は、原作者である本宮ひろ志・原作漫画の出版元である集英社・製作局の日本テレビとなっている(男一匹ガキ大将. AT-X.・第94集 男一匹ガキ大将 コレクターズDVD<デジタルリマスター版>. ベストフィールド. 共に2022年6月16日閲覧)。
  25. ^ 前身のAプロダクションが、1973年版の第21回Bパート「お天気ボックスの巻」の下請けを行った。
  26. ^ 安藤、2008年、pp.44 - 46。
  27. ^ 安藤、2008年、pp.21、29 - 31

参考文献

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関連項目

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外部リンク

[編集]

※個人サイト。