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新野親良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
新野 親良
時代 江戸時代後期から明治時代
生誕 文化5年3月6日1808年4月1日
死没 明治8年(1875年6月10日
改名 守業→中守→矩明→親良
別名 茂之進(幼名)、民之進、大隈、左馬助、古拙(通称)、清来、雪楂、石蓮(号)
官位 左馬助。大隅
幕府 江戸幕府
主君 井伊直亮→直弼→直憲
氏族 井伊氏木俣氏新野氏
父母 父:井伊直中、母:山田清伯の娘
養父:木俣守易のち新野親矩
兄弟 井伊直清穠姫蜂須賀斉昌正室)、某、井伊直亮、鋭三郎、亀五郎、知(榊原政養正室)、井伊中顕、充(内藤政順正室)、秩、中川久教内藤政成、芳(松平忠侯正室)、松平勝権親良井伊直元横地義之内藤政優井伊直弼内藤政義
河手良貞
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新野 親良(にいの ちかよし)は、幕末近江国彦根藩の一門家老井伊直弼の異母兄。詩文や書画に巧であった。

経歴

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文化5年(1808年)3月6日、彦根藩第11代藩主井伊直中の十男として生まれた。生母は井伊家の家女で近衛家家士の山田小右衛門清伯の娘。同年3月に筆頭家老の木俣守易の養子となり、木俣中守と名乗る。

文政13年(1830年)10月15日、藩祖井伊直政の恩人の新野左馬助親矩の家を再興し、2000石で別家する。実弟の井伊直弼と同じく長野義言に師事し、直弼が第15代藩主となると、嘉永4年(1852年)には家老となり藩主、幕府大老の弟を支えた。

安政7年(1860年)3月に桜田門外の変で直弼が暗殺されて後は、息子の河手良貞(武節貫治)や甥の井伊亮寿貫名亮寿)(井伊中顕の子)らと共に、少年藩主の井伊直憲を補佐した。万延元年(1860年)12月、弘道館御用係、後に弘道館総裁を務める[1]元治元年(1864年)の禁門の変では藩兵を率いて御所を守護した。

明治維新の後、明治2年(1872年)に彦根藩大参事となる。明治8年(1875年)6月10日に死去。享年68。

脚注

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  1. ^ 『近江人物志』

参考文献

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外部リンク

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