木俣守易
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 寛政10年9月4日(1798年10月13日)[1] |
死没 | 安政3年1月24日(1856年2月29日)[1] |
改名 | 半弥(幼名)→守易 |
別名 | 式部、大隅、土佐(通称)、長閑、石香、淡水、小自在庵、楽山、櫻華(号) |
主君 | 井伊直亮→直弼 |
藩 | 彦根藩 |
氏族 | 木俣氏 |
父母 | 父:木俣守前 |
子 | 守彝、守盟(幹)、守迪(畏三) |
木俣 守易(きまた もりやす)は、江戸時代近江彦根藩筆頭家老。木俣清左衛門家の第9代当主。
家系
[編集]木俣清左衛門家は、徳川家康の家臣で井伊直政に与力として付けられ、後に、彦根藩井伊家の筆頭家老となった木俣守勝に始まる家。楠木正成の孫正勝の末裔を称す。姓は橘氏。家紋は三つ盛鱗。
代々の当主は、「土佐」「清左衛門」を通称とし筆頭家老を務めた。特に、3代守明、5代守盈、10代守彝は執権職(幕政では大老に相当)に就いている。
知行高は初代守勝が4000石。2代守安が5000石。3代守明が8000石。4代守長守長が9000石。5代守盈が1万石となった。
12代畏三が、明治33年(1900年)に男爵に叙されている。
生涯
[編集]寛政10年(1798年)、彦根藩筆頭家老木俣守前の子として生まれる。文化11年(1814年)9月、部屋住みながら家老となり、藩主直亮に仕えた。
文政3年(1820年)父守前の隠居により家督を相続し、彦根藩筆頭家老となる。弟の鉄三郎(直弼)を疎んじる藩主直亮の意を受けて鉄三郎を冷遇した。
嘉永4年(1851年)藩主に就任した直弼に処罰され隠居を命じられた。安政3年(1856年)1月24日死去。享年59。
人物
[編集]楽焼に巧みで、茶入、茶碗、抹茶碗等の優れた作品を残している。藻刈舟と名づけた茶碗の箱書きには、隠居後の安政2年(1855年)松原村の別荘(下屋敷)で製作したことが記されている。
文人として頼山陽と親しく交際した。山陽は、天保3年(1832年)9月、彦根に守易を訪問し、帰宅した直後に死去している。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 彦根博物館編「彦根藩筆頭家老木俣清左衛門家資料」
- 東京大学史料編纂所「彦根藩家中貞享異譜」
- 北村寿四郎著「湖東焼の研究」