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成田十次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
成田 十次郎
名前
カタカナ ナリタ ジュウジロウ
ラテン文字 NARITA Jujiro
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1933-01-01) 1933年1月1日
出身地 日本の旗 日本高知県吾川郡池川町
没年月日 (2022-08-07) 2022年8月7日(89歳没)
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1951-1955 東京教育大学
監督歴
1968 - 東京教育大学
1969-1972 読売サッカークラブ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

成田 十次郎(なりた じゅうじろう、1933年1月1日 -2022年8月7日 、旧姓:山中)は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。スポーツ学者。高知県吾川郡池川町(現・仁淀川町)出身[1][2]

来歴

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高知県立高知追手前高等学校ではバレーボール部に所属していたが、東京教育大学体育学部に入学後は蹴球部に入部した[2]。在学中の1953年に関東大学サッカーリーグ戦で優勝、1954年に日本代表候補となる。

東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学後、1960年にドイツ体育大学ケルンに留学する際、日本サッカー協会から戦後日本のサッカー復興のためのコーチ探しを依頼され、西ドイツ国内のクラブチームから、当時西ドイツでも日本でも無名であったデットマール・クラマーを発掘した。1968年に東京教育大学の監督に就任し、関東大学サッカーリーグ戦で優勝。また、1969年から1972年まで読売サッカークラブの監督も兼任した。

1978年から筑波大学の教授に就任[2]。1996年4月から2002年10月まで高知女子大学(現:高知県立大学)の第11代学長を務めた。2010年、瑞宝中綬章を受章した[3]。2021年に仁淀川町名誉町民となった[1]

1967年に教育学の博士号を東京教育大から受けた[1]。題は「近代ドイツ体育の成立過程に関する研究」[4]

2022年8月7日午後0時16分、東京都内の自宅で前立腺がんのため亡くなっていたことが同18日にわかった[5][6]

著書

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  • 成田十次郎『サッカーと郷愁と 戦後少年のスポーツと学問の軌跡』不昧堂出版、2010年9月1日。ISBN 4829304812 

脚注

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  1. ^ a b c 成田十次郎氏が仁淀川町名誉町民となりました』(プレスリリース)仁淀川町 (広報によど川5月号)https://www.town.niyodogawa.lg.jp/download/?t=KH&id=209&fid=145052021年9月1日閲覧 
  2. ^ a b c 「[交遊サーフィン](143) 高知女子大学長・成田十次郎さん」読売新聞、1998年4月15日、2014年9月2日閲覧
  3. ^ 平成22年春の叙勲 瑞宝中綬章受章者” (PDF). 内閣府. p. 16 (2010年4月29日). 2010年9月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月22日閲覧。
  4. ^ 成田十次郎『近代ドイツ体育の成立過程に関する研究』(博士論文)東京教育大学NAID 500000373709。学位授与番号: 乙第144号。 
  5. ^ 訃報のお知らせ | 東京ヴェルディ / Tokyo Verdy”. www.verdy.co.jp. 2022年8月19日閲覧。
  6. ^ 成田十次郎さん死去 サッカー界に功績、元高知女子大学長 89歳」『高知新聞』高知新聞社、2022年8月19日。2022年10月19日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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