志々伎神社
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志々伎神社 | |
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所在地 | 長崎県平戸市野子町251番地 |
位置 | 北緯33度10分44.15秒 東経129度22分08.55秒 / 北緯33.1789306度 東経129.3690417度座標: 北緯33度10分44.15秒 東経129度22分08.55秒 / 北緯33.1789306度 東経129.3690417度 |
主祭神 | 十城別王 |
社格等 |
式内社(小) 旧県社 |
創建 | 不詳 |
地図 |
志々伎神社(しじきじんじゃ)は、長崎県平戸市野子町にある神社。志志伎神社あるいは志自伎神社とも表記する。式内小社、旧社格は県社。九州各地に志々岐・志式・志自岐として分社がある。規模が大きく県下の式内社で最大。ここに古くから伝わる神相撲は、今日の相撲の原形といわれる[1][2]。平戸全島で行われるジャンガラも当社から広まったものである。
概要
[編集]創建年代は5世紀頃とも言われるが、正確には不明である。神域は平戸島の南端近くにある志々伎山(標高347.2メートル)を中心としており、古くは山の頂上に上宮、中腹に中宮、麓にある漁村の宮の浦に地の宮(下宮、邊都宮)、そして宮の浦沖の沖ノ島に沖の宮がそれぞれ置かれ、別に別当寺として円満寺が設けられていた。祭神は日本武尊の子、仲哀天皇の異母弟で、神功皇后の三韓征伐に従い、その後当地に留まり西国警護を命ぜられたと伝えられる十城別王(十城別命)で、地の宮は王が設けた武器庫を転用したもの、沖の宮は王の墓所であると伝えられている。
『延喜式』神名帳において肥前国内では4社ある式内社の一つとしてその名があり、壱岐・対馬地域を除く長崎県内では唯一であり、最も古くから知られた神社である。その後も松浦党諸家や周辺地域漁民の崇敬を広く集めた。
現在の祭祀等の中心は中宮となっている。当初は志々伎山山頂下の祠にあったが、永禄2年(1559年)に中腹に、さらに1961年(昭和36年)に明治初年に神仏分離令により廃された円満寺(当社の別当寺)の跡地である現在地に移った。
旧社殿地は1974年(昭和49年)に「旧式内社志々伎神社跡」として長崎県史跡に指定されている。