面掛行列
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(御霊神社の面掛行列から転送)
面掛行列(めんかけぎょうれつ)は、神奈川県鎌倉市坂ノ下の御霊神社で行われる行列行事である。面をかぶった男達が練り歩く。現在は毎年9月18日の例祭で行われているが、明治の神仏分離までは鶴岡八幡宮の8月15日の放生会で行われていた。「はらみっと祭」などとも言う。神奈川県の無形民俗文化財。
現在の構成
[編集]- 先頭、天狗面をかぶったサルタヒコの神。神々の誘導役。
- 次、獅子頭二頭。面をかぶらず、枠に載せてかつぐ。
- 一番、爺。二番、鬼。三番、異形。四番、鼻長。五番、烏(カラス)天狗、六番、翁。七番、火吹き男(ヒョットコ・火男)。八番、福禄寿[注釈 1]、九番、おかめ。十番、女(取り上げ)。
歴史
[編集]- 1187年、鶴岡八幡宮の放生会は流鏑馬のみであったが、京都の石清水八幡宮に倣って雜色を呼んで面掛行列が始まる。
- 後に源頼朝から関東の長吏頭(非人のリーダー)に任ぜられる者が摂津国池田から鎌倉に来て極楽寺に居を構える(『弾左衛門由緒書』によれば、1180年に藤原弾左衛門が源頼朝の朱印状を得て長吏の座頭になり、極楽寺周辺に暮らし、寺の雑用や芸能など非人仕事を管轄したとされるが[1]、由緒を疑う見方もある)。頼朝がその長吏頭の娘を懐妊させてしまったため、その詫びに、年一回、鎌倉の非人たちに無礼講を許した。その時、妊娠した娘の姿に仮装して村中を歩いたのを面掛行列の始まりとする俗伝もあり、そのためかつては「非人面行列」と呼ばれていた[2]。
- 1523年、相模国の芸能勧進の長吏職をめぐる闘争で長吏職を罷免された者の同族が鶴岡八幡宮の掃除役に任じられた。芸能者の支配役となり、面掛行列の先頭を勤めた。
- 1753年、扇谷の仏師後藤斎宮が天狗面を作り、御霊神社に奉納。現存。
- 1768年、面掛行列の面が新たに奉納された。現存。
- 1868年、神仏判然令。鶴岡八幡宮は1868年(明治1年)、仏教的神号の八幡大菩薩を明治政府によって禁止され、石清水八幡宮や鶴岡八幡宮の放生会は中秋祭に改めさせられた。面掛行列は坂ノ下の御霊神社に移された。
その他の面掛行列
[編集]現在「面掛行列」は、鎌倉市内ではこの御霊神社のものだけが毎年続けられているが、江戸時代までは鎌倉市山ノ内の八雲神社でも行われていた(「面と衣裳」が伝わる)。これは、60年に1度開催される円覚寺の洪鐘弁天大祭に「八雲神社の面掛行列」として参加しており、60年周期で存続している[3]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 文献4大藤ゆき『鎌倉の民俗』は「福禄寿」ではなく「ほてい」としている。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 文献1:三山進「鎌倉西部」『鎌倉歴史散歩』(大佛次郎編)河出書房新社、1957年、p170。
- 文献2:西角井正慶編『年中行事辞典』東京堂出版、1958年、p722-723
- 文献3:澤壽郎編『鎌倉近世史料―長谷・坂ノ下編―』鎌倉市教育委員会、1975年、p70。
- 文献4:大藤ゆき『鎌倉の民俗』かまくら春秋社、1977年、p355。
- 文献5:土井誠「例祭と放生会」(高橋健司編)『写真譜・鶴岡八幡宮』桜楓社、1987年、p97。
- 文献6:永田衡吉『増補改訂版神奈川県民俗芸能誌』神奈川県教育委員会(錦正社)、1987年、p353。
- 鎌倉歴史文化交流館 『特集展示 洪鐘祭(おおがねまつり/こうしょうさい)~60年に1度の祭礼の記憶~』2023年(令和5年)7月15日発行