御宿友綱
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天文15年(1546年) |
死没 | 慶長11年3月21日(1606年4月28日) |
別名 | 左衛門次郎→監物→頤神軒善養(法号) |
戒名 | 慈光院殿明智大居士 |
主君 | 武田信玄→勝頼→北条氏直 |
氏族 | 御宿氏(葛山氏) |
父母 | 父:御宿綱治 母:跡部勝忠の妹 |
兄弟 | 友綱、小山田信茂室、武田信堯室 |
妻 | 長坂光堅の娘 |
子 | 政友、政綱 |
御宿 友綱(みしゅく ともつな、天文15年(1546年) - 慶長11年3月21日(1606年4月28日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。 通称は左衛門次郎。監物。妹に小山田信茂室、武田信堯室。正室は長坂光堅の娘。子に御宿政友、政綱。
略歴
[編集]天文15年(1546年)に生まれる。幼名は若丸。父は御宿綱治、生母は甲斐武田氏譜代の家臣・跡部勝忠の妹(「葛山御宿系図」)。 御宿氏は駿河の国人領主・葛山氏の庶流であり、御宿を本貫地とした。
天文23年(1554年)に父母と離れて駿州相国寺へ出家したが、父綱治は今川義元が妻を奪おうとしたために今川氏と敵対し、御宿館で今川勢と交戦して弘治3年(1557)4月7日に妻子を殺害して自害し、父の仇討を画策したことが義元に発覚したことで永禄元年(1558年)に甲州へ逃れて母方の伯父である跡部勝忠を頼り、その縁で武田信玄に仕え川中島の戦いを始めとして功名を挙げたとされる(「葛山御宿系図」)。
元亀3年(1572)4月20日、信玄から駿河国御宿・千福・上田・菅古・棚頭・足洗・内谷・焼津・丸子・油野・沢田の12ケ所の所領安堵を宛がわれている。また、葛山氏の一族であったことから、信玄の6男で葛山氏元の養子になった葛山信貞の軍代(陣代、後見人)を務めたといわれる(「武田源氏一流系図」)。
天正元年(1573)4月12日に信玄が亡くなり、3年後の天正4年(1576年)4月16日に執行された武田信玄の葬儀の際に出家して頤神軒善養と号し(「葛山御宿系図」)、天正8年(1580年)12月19日、子の御宿政友に家督を譲って隠居した。
天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐で武田氏が滅亡した後は後北条氏に仕えたが、天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、上野国藤岡に篭居した(「葛山御宿系図」)。嫡男・政友は徳川家康に仕え、次男・政綱は松平忠輝にそれぞれ仕えた。
慶長11年(1606年)3月21日に死去。享年61。
人物
[編集]- 「武田源氏一流系図」は「宏学人」で数多くの述作の書を世に多行したとし、「葛山家譜」も「嘗達文武之学」とする等、文武に長けた教養人で、信玄の侍医である板坂宗商から医術を学んで医術にも長けていたとされる(「葛山家譜」)。なお、武田信玄の侍医を務めたとされているがそのことを裏付ける史料はない。
参考文献
[編集]- 裾野市史編さん専門委員会『裾野市史第二巻資料編古代・中世』裾野市、1995年3月。
- 裾野市史編さん専門委員会『裾野市史 資料編 古代・中世 別冊付録 中世系図集 第二巻』裾野市、1995年3月。
- 丸島和洋 著「御宿友綱」、柴辻俊六; 平山優; 黒田基樹 ほか 編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年。