葛山氏元
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 永正17年(1520年) |
死没 | 天正元年(1573年)2月 |
別名 | 八郎、左衛門佐、備中守、中務少輔 |
戒名 | 瑞栄居士 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 北条氏綱→氏康→今川義元→氏真→武田信玄 |
氏族 | 葛山氏 |
父母 |
父:葛山貞氏、母:不詳 養父:葛山氏広 |
兄弟 | 氏元、綱春? |
妻 | ちよ(北条氏綱の娘) |
子 | ちやち(瀬名氏詮室)、松千世、おふち(葛山信貞室)、竹千世、久千世 |
葛山 氏元(かつらやま うじもと、永正17年(1520年) - 天正元年(1573年)2月)は、戦国時代の武将。駿河国駿東郡の国衆で、葛山城城主。養父は葛山氏広で、実父は氏広の義弟・葛山貞氏とされる(「為和集」朱注)[注釈 1]。妻は北条氏綱の娘・ちよ。[2]。
略歴
[編集]葛山氏は駿河国の東部に広域にわたって在地領主制を展開した国衆。その支配地域が今川氏の駿河、武田氏の甲斐、北条氏の相模の三国の国境沿いに位置していた。
天文4年(1535年)以前に元服して八郎と称し、天文6年(1537年)に今川義元と北条氏綱が争った河東一乱の際には氏広と共に北条方についた。天文8年(1539年)以前に氏広が死去すると家督を継いだが、しばらくは氏広後室が領域支配にあたったとされている。
後北条氏に従属している間に、大永6年(1526年)生まれの氏綱の娘「ちよ」と婚姻している[2]が、河東一乱で北条氏と今川氏が衝突する最中の天文14年(1545年)、突如北条氏から離反して今川氏に従属した。その功績によって御厨地方[注釈 2]を与えられ、以後は氏広同様に御一家衆としての待遇を受けて駿府に居住した。
永禄後年には同盟関係にあった武田・今川氏の関係が険悪化し、永禄11年(1568年)末に武田信玄が今川領国への侵攻を行った(駿河侵攻)際には氏元は朝比奈信置や瀬名貞綱らと武田方に内応し、翌永禄12年2月1日には武田家臣穴山信君とともに今川氏と同盟関係にある相模後北条氏の後援を受けた富士郡の富士信忠の守る大宮城(富士宮市)を共に攻めている(『静岡県史』資料編8 - 358号)。戦功によって、従来の駿東郡に加えて富士郡の一部も領有したと考えられている[1]。
氏元は信玄の六男・信貞を次女・おふちの婿養子とし家督を譲り、元亀3年(1572年)には信貞が家督を継承していることが確認出来る。信貞は分郡領主として葛山城に赴任しておらず、在地支配は武田家臣となっていた葛山氏庶流・御宿氏の御宿友綱が行っていたと考えられている。
その後後北条氏と内通して武田氏への謀反を企図したことが露見し(「松平記」)、天正元年(1573年)2月末、信玄の命令によって信濃国諏訪湖へ入水した(仏眼禅師語録)。「甲乱記」は一門が悉く諏訪湖に沈み果てたとし、「松平記」は諏訪で一門5人が磔にされたとそれぞれ伝えている。黒田基樹はこの中に氏元の男子3人も含まれていたと推定し、氏元等の粛清は信玄の亡くなる直前のことであることから、信貞を巡る環境を整えることを優先して強引に処置した可能性を指摘している[4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 裾野市史編さん専門委員会『裾野市史第二巻資料編古代・中世』裾野市、1995年3月。
- 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年。ISBN 978-4-86403-289-6。
- 黒田基樹『武田信玄の妻、三条殿』東京堂出版、2022年8月。