弘徳寺 (茨城県八千代町)
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弘徳寺 | |
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所在地 | 茨城県結城郡八千代町新地547 |
位置 | 北緯36度10分16.7秒 東経139度54分47.5秒 / 北緯36.171306度 東経139.913194度座標: 北緯36度10分16.7秒 東経139度54分47.5秒 / 北緯36.171306度 東経139.913194度 |
山号 | 新堤山 |
院号 | 宗智院 |
宗派 | 真宗大谷派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 鎌倉時代前期 |
開基 | 相馬義清(信楽) |
文化財 | 木造阿弥陀如来立像(八千代町指定文化財) |
弘徳寺(こうとくじ)は、茨城県結城郡八千代町にある真宗大谷派の寺院。
前史
[編集]開基の信楽の父である相馬師常は、1201年(建仁元年)に出家し、法然の弟子となった。この年は浄土真宗宗祖親鸞が法然に弟子入りした年でもある。子の相馬義清(後の信楽)も、そういう経緯により浄土信仰に親しんでいた[1]。
歴史
[編集]親鸞が常陸国真壁郡(現・同県下妻市小島)の小島草庵にいたころ、相馬義清は薬師如来の霊夢により、親鸞のもとを訪れ、法話を聴いた後、義清は親鸞に弟子入りし、「信楽」を名乗った。そして自分の屋敷を寺院化したのが当寺の起源である[1][2]。
親鸞に弟子した信楽であったが、親鸞の教義(浄土真宗)に異議を唱え、親鸞から離れたことがあった。弟子の一人が親鸞に「信楽に渡した物(本尊など)は取り返すべきでないか?」と主張したが、親鸞はその主張を否定し「(親鸞も信楽も)同じ阿弥陀如来の弟子であり、同行(仲間)であるのだから、(自分が信楽に渡した物を)あたかも親鸞自身の私物であるようなことを言うべきでない。」とし、信楽の行動を不問に付した。後に信楽は前非を悔い、覚如に謝罪して浄土真宗に復帰したという[1]。
文化財
[編集]- 木造阿弥陀如来立像(八千代町指定文化財 平成9年10月1日指定)[3]
交通アクセス
[編集]- 坂東ICより車18分。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- プレスサービス 編『茨城の寺を訪ねて』茨城放送、1987年