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引田利章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
引田 利章
人物情報
生誕 引田精作[1]
嘉永4年6月14日1851年7月12日
長門国阿武郡江向村(山口県萩市江向)
死没 明治23年(1890年7月11日
東京府東京市四谷区坂町78番地(東京都新宿区四谷坂町
肺結核
国籍 日本の旗 日本
出身校 大阪陸軍幼年学校
配偶者 秋村ミス
両親 引田利亮、りえ
子供 引田乾作
学問
時代 明治時代
研究機関 陸軍大学校、陸軍参謀本部
称号 陸軍教授、従七位[2]
主要な作品大越史記全書』『仏安関係始末』
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引田 利章(ひきた としあき)は、大日本帝国陸軍の研究者。当時フランスに支配されつつあったインドシナ半島の歴史、情勢等を研究した。

経歴

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嘉永4年(1851年)6月14日、長門国阿武郡江向村に長州藩引田利亮の次男として生まれた。引田家の8代目当主[1]明治3年(1870年)大阪に出て、明治4年(1871年)1月31日大阪陸軍幼年学校に入学し、明治5年(1872年)10月幹事、明治6年(1873年)8月総幹事を歴任した後、明治8年(1875年)12月陸軍省一等専業生となり、この頃フランス語を学んだ[1]

明治11年(1878年)1月12日陸軍省に出仕し、明治16年(1883年)2月26日陸軍大学校助教兼参謀本部編纂課課員、明治19年(1886年)12月17日陸軍大学校教授兼参謀本部陸軍部御用掛、明治20年(1887年)10月26日陸軍大学教官兼参謀本部陸軍部課僚となった[1]

明治19年(1886年)5月22日仏学会設立に参加し、理事員となった[3]

明治23年(1890年)7月11日肺結核のため東京府四谷区坂町78番地の自宅で死去した[1]。当初萩市善福寺に葬られたが、明治43年(1910年)青山霊園に移葬された。なお現在は同霊園の立体埋蔵施設に合葬されている[1]

著書

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家族

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先祖は阿倍比羅夫という。

  • 父:引田利亮 - 佐藤与三左衛門三男。長州藩[1]1901年5月18日没。82歳。
  • 母:里衣(りえ) - 引田利永長女[1]1920年1月19日没。83歳。
  • 兄:利政 - 15歳で病死[1]
  • 弟:秋村秀作[1]
  • 弟:平山乾作[1]
  • 妻:秋村ミス - 秋村鉄一郎長女。1878年(明治11年)6月1日入籍[1]
  • 長男:章一郎 - 1880年(明治13年)1月12日生、1881年(明治14年)2月13日没[1]
  • 次男:利貞 - 1882年(明治15年)4月3日生、7月13日没[1]
  • 長女:彰子 - 1883年(明治16年)7月11日生、1884年(明治17年)12月28日没[1]
  • 次女:美代子 - 1887年(明治20年)6月2日生、1891年(明治24年)8月12日没[1]
  • 子:引田乾作 - 陸軍中将、第20師団[1]
  • 孫:引田一郎 - 実業家宝塚音楽学校校長。
  • 孫:引田二郎 - 42歳で戦死。
  • 曽孫:引田英雄 - 映画監督。引田家11代

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 佐藤 1972.
  2. ^ 「文武官履歴書回送の件」
  3. ^ 「古市公威とその世界」

参考文献

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  • 佐藤茂教「引田利章の経歴紹介と曽根俊虎に関する若干の史料」『史学』第45巻第1号、三田史学会、1972年、89-92頁、NAID 110007410196 
  • 法政におけるフランス年 2004/05 古市公威とその世界” (PDF). 法政大学大学史資料委員会、土木学会 (2004年). 2015年12月20日閲覧。
  • 文武官履歴書回送の件」 アジア歴史資料センター Ref.C03030638000