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庄司巽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
庄司 巽
生誕 1893年8月11日
日本の旗 日本 東京府
死没 (1963-07-06) 1963年7月6日(69歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1913年 - 1945年
最終階級 陸軍少将
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庄司 巽(しょうじ たつみ[1]1893年明治26年)8月11日[2] - 1963年昭和38年)7月6日[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。

経歴

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1893年(明治26年)に東京府で生まれた[2]陸軍士官学校第25期卒業[2]1938年(昭和13年)7月15日陸軍歩兵大佐に進級すると同時に[3]、独立歩兵第5大隊長(駐蒙兵団独立混成第2旅団)に就任し[1][2]日中戦争に出動した[2]1939年(昭和14年)3月に歩兵第40連隊長(第2軍第10師団・歩兵第8旅団)に転じ[1][2]石家荘付近の平定に任じ[2]、同地に駐屯した[2]。連隊は同年夏に鳥取に復員したが[2]1940年(昭和15年)に満洲永久駐屯が決定され[2]佳木斯に移駐した[2]1942年(昭和17年)4月に札幌連隊区司令官に就任した[1]

1945年(昭和20年)3月31日に歩兵第87旅団長(関東軍第3方面軍第44軍第117師団)に就任し[2]、ソ連軍侵攻に備えていた[2]。同年6月10日に陸軍少将に進級[3]。戦後はシベリア抑留を受けた[4]1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[5]1950年(昭和25年)7月に綏芬河でソ連から中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収容された[4][6]。戦犯管理所では「学習反省」「認罪坦白」などを行った[7]。当初は1956年(昭和31年)6月に開かれる瀋陽特別軍事法廷で懲役14年の判決が予定されていたが[8][9]、理由は不明であるが免訴となり[8][9]、釈放され帰国した[10][11]

脚注

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  1. ^ a b c d 外山 1981, 344頁.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 福川 2001, 381頁.
  3. ^ a b 外山 1981, 343頁.
  4. ^ a b 大澤 2016, 45頁.
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」212頁。
  6. ^ 大澤 2016, 46頁.
  7. ^ 大澤 2016, 59頁.
  8. ^ a b 大澤 2016, 135頁.
  9. ^ a b 大澤 2016, 154頁.
  10. ^ 大澤 2016, 138頁.
  11. ^ 大澤 2016, 139頁.

参考文献

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  • 大澤武司 著『毛沢東の対日戦犯裁判 : 中国共産党の思惑と1526名の日本人』中央公論新社、2016年。ISBN 4121024060 
  • 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026