広河女王
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広河女王(ひろかわじょおう/ひろかわ の おおきみ、生没年不明 )は、奈良時代中・後期の皇族。名は広川とも記される[1]。穂積親王の孫、上道王の女[2]。位階は従五位下。
記録
[編集]淳仁朝の天平宝字7年(763年)に、藤原乙刀自・藤原今児・藤原人数らとともに無位から従五位下に叙せられている。
史書に記された記録はこれだけであるが、『万葉集』に天平始め頃に作られたと思しき歌が2首、収録されている。
恋草を 力車に 七車 積みて恋ふらく 我が心から
(恋草を 力車に 七台も 積むほど重荷の恋をするのも 身から出たさび)[3]
恋は今は あらじと我(あれ)は 思へるを いづくの恋ぞ つかみかかれる
(もう恋とは 縁が切れたとわたしは 思っていたのに どこに隠れていた恋めが 取り付いてきたのであろうか)[4]
2番目の歌は、作者の祖父の穂積親王の歌で、
家にある 櫃(ひつ)に鏁(かぎ)刺し 蔵(をさ)めてし 恋の奴(やっこ)が つかみかかりて
(家にある 櫃に鍵を掛け 閉じ込めておいた 恋の奴めが つかみかかりおって)[5]
に影響されたものだと言われている。この歌は、穂積親王が宴会の際に宴もたけなわとなった際によくくちずさみ、座興とされたものだという。
なお、『本朝皇胤紹運録』は、天武天皇皇子長親王(穂積親王の兄)の子に「上道広川女王」をあげているが、広瀬女王と混同した可能性が考えられる[6]。
官歴
[編集]『続日本紀』による。