広橋光業
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 弘安10年(1287年) |
死没 | 康安元年(1361年) |
改名 | 光業→慈寂 (法名) |
別名 | 勘解由小路 |
官位 | 従二位、権中納言 |
主君 | 後深草上皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇→光厳天皇→光明天皇→崇光天皇 |
氏族 | 広橋家 |
父母 | 父:広橋兼仲、母:源親時娘 |
兄弟 | 光資、光業、宗昭、時兼、藤原嗣実[1]室、女子[2]、藤原氏家[3]室 |
妻 | 坊門俊輔の娘 |
子 | 兼綱、兼名、女子 |
広橋 光業(ひろはし みつなり)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。権中納言・広橋兼仲の次男。官位は従二位・権中納言。勘解由小路と号す。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
永仁2年(1294年)5月8日、勧学院学問料を賜う。永仁3年(1295年)9月28日、文章生。永仁5年(1297年)2月23日、叙爵。5月4日、宮内少輔に任ぜられる。6月25日には治部権少輔に任ぜられる。永仁6年(1298年)1月5日、従五位上に昇叙。正安2年(1300年)1月5日、正五位下に昇叙。応長元年(1311年)1月17日、右衛門権佐に任ぜられ、即検非違使の宣旨が下る。
正和元年(1312年)10月12日、左衛門権佐に転任。正和2年(1313年)9月6日、治部大輔に任ぜられ、同日蔵人に補せられる。正和4年(1315年)2月21日、右少弁に任ぜられ、蔵人を辞める。正和5年(1316年)1月5日、正五位上に昇叙。7月22日には左少弁に転任。8月12日には従四位下に昇叙。文保元年(1317年)2月5日、権右中弁に転任。4月6日、従四位上に昇叙。6月1日には右中弁に転任。文保2年(1318年)4月14日、右宮城使に補される。7月7日、正四位下に昇叙。12月には右中弁を止める。
元応元年(1319年)3月9日、左中弁に任ぜられる。4月5日、卒分所勾当、装束使、左宮城使となる。元応2年(1320年)2月9日、近江権守を兼ねる。3月24日、修理権大夫に任ぜられ、同日蔵人頭に補される。9月5日、参議に任ぜられる。修理権大夫は元の如し。元亨元年(1321年)3月11日、参議を辞した。4月6日には修理権大夫を止め、従三位に叙される。元徳2年(1330年)3月22日、正三位に昇叙。康永2年(1343年)1月5日、従二位に昇叙。貞和2年(1346年)12月5日、権中納言に任ぜられる。貞和4年(1348年)2月11日、権中納言を辞した。
文和元年(1352年)5月4日、出家。法名は慈寂。康安元年(1361年)、薨去。
梅宮祭での奉仕
[編集]『師守記』[4]によれば、近年、梅宮祭で上卿が参じない例があるとして、光業が文保元年(1317年)11月10日の梅宮祭に参じて行事を執行したと裏書に記されている。