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広橋光業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
広橋光業
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 弘安10年(1287年
死没 康安元年(1361年
改名 光業→慈寂 (法名)
別名 勘解由小路
官位 従二位権中納言
主君 後深草上皇伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇光厳天皇光明天皇崇光天皇
氏族 広橋家
父母 父:広橋兼仲、母:源親時
兄弟 光資光業、宗昭、時兼、藤原嗣実[1]室、女子[2]藤原氏家[3]
坊門俊輔の娘
兼綱、兼名、女子
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広橋 光業(ひろはし みつなり)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿権中納言広橋兼仲の次男。官位従二位・権中納言。勘解由小路と号す。

経歴

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以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

永仁2年(1294年)5月8日、勧学院学問料を賜う。永仁3年(1295年)9月28日、文章生。永仁5年(1297年)2月23日、叙爵。5月4日、宮内少輔に任ぜられる。6月25日には治部権少輔に任ぜられる。永仁6年(1298年)1月5日、従五位上に昇叙。正安2年(1300年)1月5日、正五位下に昇叙。応長元年(1311年)1月17日、右衛門権佐に任ぜられ、即検非違使の宣旨が下る。

正和元年(1312年)10月12日、左衛門権佐に転任。正和2年(1313年)9月6日、治部大輔に任ぜられ、同日蔵人に補せられる。正和4年(1315年)2月21日、右少弁に任ぜられ、蔵人を辞める。正和5年(1316年)1月5日、正五位上に昇叙。7月22日には左少弁に転任。8月12日には従四位下に昇叙。文保元年(1317年)2月5日、権右中弁に転任。4月6日、従四位上に昇叙。6月1日には右中弁に転任。文保2年(1318年)4月14日、右宮城使に補される。7月7日、正四位下に昇叙。12月には右中弁を止める。

元応元年(1319年)3月9日、左中弁に任ぜられる。4月5日、卒分所勾当、装束使、左宮城使となる。元応2年(1320年)2月9日、近江権守を兼ねる。3月24日、修理権大夫に任ぜられ、同日蔵人頭に補される。9月5日、参議に任ぜられる。修理権大夫は元の如し。元亨元年(1321年)3月11日、参議を辞した。4月6日には修理権大夫を止め、従三位に叙される。元徳2年(1330年)3月22日、正三位に昇叙。康永2年(1343年)1月5日、従二位に昇叙。貞和2年(1346年)12月5日、権中納言に任ぜられる。貞和4年(1348年)2月11日、権中納言を辞した。

文和元年(1352年)5月4日、出家。法名は慈寂。康安元年(1361年)、薨去。

梅宮祭での奉仕

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師守記[4]によれば、近年、梅宮祭上卿が参じない例があるとして、光業が文保元年(1317年)11月10日の梅宮祭に参じて行事を執行したと裏書に記されている。

系譜

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  • 父:広橋兼仲(1244-1308)
  • 母:源親時娘
  • 妻:坊門俊輔の娘
  • 生母不明の子女
    • 男子:広橋兼名
    • 女子

脚注

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  1. ^ 藤井嗣実、参議
  2. ^ 典侍
  3. ^ 左兵衛督
  4. ^ 『師守記』貞和3年(1347年)11月9日の条。

参考文献

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