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平石七太夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

平石 七太夫(ひらいし しちだゆう、1825年文政8年) - 1878年明治11年)2月17日)は、筑前国出身(現福岡県朝倉市か)の幕末大相撲力士。最高位は関脇年寄5代井筒、8代音羽山

人物

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大坂相撲に入門し古処ヶ嶽を名乗るといわれるも番付未確認。江戸の雷部屋で虎ヶ嶽で1854年二段目が初見。投石、書釋迦山から出釋迦山と改名し1862年11月入幕。讃岐国丸亀藩の抱えで、丸亀の四国八十八箇所第73番札所の出釈迦寺に因んだと考えられる。合掌仕切りで人気を博し、「お釈迦によう似た出釈迦山」とも謳われた[1]。勝越しを続け、1866年11月小結、平石に改名し1868年関脇となるも2場所全休し1868年11月限り引退。1869年頃井筒を襲名[2]、その後雷(十万ノ海)が死去、音羽山(簗瀬嶽)が廃業し雷一門のまとめ役として音羽山を襲名したと思われる。弟子には幕内投石、十両出釈迦山らがいた。巡業番付、文献には一度も現れないままで1878年2月死去。

主な成績(江戸)

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  • 番付在位場所数:24場所
  • 幕内在位:13場所
  • 幕内成績:55勝16敗44休11分2預

場所別成績

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平石 七太夫
春場所 冬場所
1854年 x 西幕下49枚目
 
1855年 西幕下40枚目

興行中止
 
x
1856年 西幕下41枚目
 
西幕下23枚目
 
1857年 番付非掲載
不出場
番付非掲載
不出場
1858年 番付非掲載
不出場
西幕下13枚目
 
1859年 西幕下12枚目
 
西幕下10枚目
5–3
1預
 
1860年 西幕下7枚目
0–0 
番付非掲載
不出場
1861年 西幕下4枚目
4–1
1分1預
 
西幕下筆頭
2–2 
1862年 西幕下筆頭
6–0
1分
 
西前頭5枚目
5–2–2
1分
 
1863年 西前頭4枚目
5–0–3
2分
 
西前頭2枚目
7–1
1分
 
1864年 西前頭2枚目
6–1–2
1分
 
西前頭筆頭
5–1–3
1分
 
1865年 西前頭筆頭
6–2–1
1預
 
西前頭筆頭
6–0–1
1分1預
 
1866年 西前頭筆頭
4–3–3 
東小結
4–4–1
1分
 
1867年 東小結
2–0–7
1分
 
東小結
5–2–1
2分
 
1868年
(明治元年)
東関脇
0–0–10 
東関脇
引退
0–0–10
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  • 当時は十両の地位が存在せず、幕内のすぐ下が幕下であった。番付表の上から二段目であるため、現代ではこの当時の幕下は、十両創設後現代までの十両・幕下と区別して二段目とも呼ぶ。
  • 二段目11枚目以下の地位は小島貞二コレクションの番付実物画像による。またこの地位に関しては、当時の星取・勝敗数等に関する記録が相撲レファレンス等のデータベースに登録されておらず、現存しない場所がある可能性もあるため、勝敗数等は上表からは省略。

改名歴

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  • 虎ヶ嶽 長五郎(上の名前の番付面の表記は「とらたけ」「虎ヶたけ」) - 1854年11月場所 - 1856年1月場所
  • 投石 辰平 - 1856年11月場所
  • 書釋迦山 峯吉 - 1858年11月場所 - 1859年11月場所
  • 出釋迦山 峰吉(二段目在位時の下の名前の番付面の表記は「峯吉」) - 1860年2月場所 - 1866年11月場所
  • 平石 七太夫 - 1867年4月場所 - 1868年11月場所

脚注

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  1. ^ 関取名鑑(平石 七太夫)”. web.archive.org (2006年9月11日). 2020年7月20日閲覧。
  2. ^ 従来、引退数年後の1871年頃音羽山を襲名と考察されていたが、2010年頃発見された1873年の年寄連名に井筒万五郎の名があり、お抱え藩や次代音羽山との関係から平石の襲名と決定づけられた。

関連項目

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外部リンク

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