平岡等庵
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平岡 等庵(ひらおか とうあん、宝暦9年(1759年)- 天保6年(1835年)2月)は、日本の医師・教育者。名は正敬[1]。字は子善[1]。本姓は足立。
経歴
[編集]会見郡富益村(現鳥取県米子市富益町)の足立家に生まれた。幼い頃より利発で、好んで学問したといわれる[1]。体のひ弱だった彼には弓浜の農業、ことに朝早くから夜遅くまで働かなければならない農家には向いていなかったため、医術を学んだ[2]。少年期より百姓を嫌って医師になることを望んで医家に入った[3]。平岡の姓は師とした医家よりもらったことになる[3]。
寛政の初め頃、福島脩や景山粛、横田朗など、弓浜や米子を出て京都にて医術や漢学を修行するものが多くいたが、等庵も彼らと共に京都に出て医術を修行し、また沢源誼について儒学を学んで帰った[3]。
医業の傍ら家塾を開いて子弟の教育を行った[3]。更に先述の同僚たちや米子周辺の好学の人々と研鑽して、同地方の国学、漢学の発展に努めた。また、地域にあって社会教育などを行って村民の啓蒙にも努力した。
人物像
[編集]郷土富益村は宝永5年(1708年)近村より集団移住して開発された村で、それまでは荒寥とした砂丘地であった。その開発元祖十七人を顕彰した富益邨塔が富益神社に建てられているが、これに等庵は自ら撰した碑文を刻んだ。その末尾には
- 「以て石に勒し後裔をして各々其の祖の勤労を知らしむべきこと、亦善からずや。銘を余に請ふ。余其の能く孝有るに感じ、以て之が銘を作る。銘に曰く、於(ああ)、十七戸、以て一村を開く。功も亦偉なり。以て子孫に貽(のこ)す。千歳万祀、其の愈(いよいよ)繁からんことを期す。怠る忽(なか)れ、佚(いつ)する忽(なか)れ。王の元元[4]なり。十七の祖霊、福を以て蘐(わするる)こと弗(な)し。
系譜
[編集]平岡(足立)家
[編集]- 五代文卿は種痘医の免許を持ち、藩政末期より明治初めにかけて種痘を行っており、西園寺公望が、山陰鎮撫で米子に来た折には、その供を仰せ付けられていた[3]。文卿は老齢になると視力が衰え、患家の者に手を引いてもらって往診していたが、目は見えなくても診立ては良かったと評判であったという[3]。
- 六代良策も寺子屋を開き、子弟に読み書きそろばんを教えていた[3]。文化13年(1816年)から明治6年(1873年)までという記録があるから初代から引き継いで寺子屋をしていたものであろうが、57年間の開校期間は県下でも長期間の記録に入るものである[3]。
略系図
[編集]正敬(等庵) | |||||||||||||||||||||||||||||
秀郷 | |||||||||||||||||||||||||||||
順達 | |||||||||||||||||||||||||||||
令介 | |||||||||||||||||||||||||||||
文卿 | |||||||||||||||||||||||||||||
良策 | |||||||||||||||||||||||||||||
三平 | |||||||||||||||||||||||||||||
鯉三 | 吉益 | ||||||||||||||||||||||||||||
参考文献
[編集]- 森納 『因伯の医師たち』 1979年 169-171頁
関連
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 森納著『因伯の医師たち』169頁
- ^ 森納著『因伯の医師たち』169-170頁
- ^ a b c d e f g h i 森納著『因伯の医師たち』170頁
- ^ 元元=庶民、愛すべき民。
- ^ 文化元年は1804年。
- ^ a b 森納著『因伯の医師たち』171頁
- ^ 足立氏系譜(武家家伝)、中国地方の足立氏、足立氏の歴史