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幡羅遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
幡羅官衙遺跡 概観
手前に実務官衙域、左奥の樹叢(湯殿神社社叢)に西別府祭祀遺跡、右奥に西別府廃寺跡が所在。
幡羅遺跡の位置(埼玉県内)
幡羅遺跡
幡羅遺跡
所在地

幡羅遺跡(はらいせき)、または幡羅官衙遺跡(はらかんがいせき)は、埼玉県深谷市東方(ひがしがた)に所在する、古代武蔵国幡羅郡郡衙跡とみられる遺跡である。幡羅官衙遺跡群の1つとして国の史跡に指定されている[1]

概要

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幡羅官衙遺跡群は、埼玉県深谷市東方から熊谷市西別府に跨がって所在する、幡羅郡衙とその周辺の関連遺跡を総称した遺跡群である。このうち、幡羅遺跡は、郡衙中枢部をなす領域の深谷市側の遺跡範囲(周知の埋蔵文化財包蔵地)を指す呼称である[2]

範囲は東西約500メートル×南北約400メートルにおよび、東側は熊谷市域の西別府遺跡へと連なる。2001年(平成13年)度以降、35次にわたる発掘調査により、租税などを納めた正倉高床建築掘立柱建物、後に礎石建物となる)のほか、国司巡回などの際に宿泊施設となった「館」とみられる四面庇建物(しめんびさしたてもの)、厨家曹司などの実務官衙域の建物群(掘立柱建物)、区画溝道路などの遺構が検出された[3]

遺跡の中央部には、両端に側溝を持つ幅8メートルの直線道路が敷設されており、遺跡の南西端から北東方向に伸びている。道路の北東端は台地末端部の西別府祭祀遺跡にいたる。道路北西側に正倉の建物群、南東側に実務官衙域(厨家曹司など)の建物群が配置され、道路北西側の側溝の方が南東側の側溝より大きいことから、正倉を区画する溝でもあったと推定されている[4]政庁(郡庁)の建物跡は確認されていないが、深谷市側の西別府遺跡に所在している可能性が高いとされる[5]。なお、当遺跡範囲の西隣から南隣にかけては、郡衙周辺の集落域である下郷遺跡(しもごういせき)が展開する[6]

これらの郡衙施設群は、7世紀後半に周辺集落とともに出現し、建物の建て替えや配置の変化などの変遷を伴いながら300年以上存続して11世紀前半に廃絶したと考えられている。

ハラ君

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深谷市は、「館」とみられる建物跡に付随する竪穴建物から出土した、カマド土製支脚(しきゃく)と推定される人面の彫られた円筒形土製品をモデルとして、遺跡群のPRキャラクター「ハラ君」を制作した。この支脚の人面表現はカマド神ではないかと考えられている[7]

脚注

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  1. ^ 文化庁. “幡羅官衙遺跡群-幡羅官衙遺跡・西別府祭祀遺跡-”. 文化遺産データベース. 2023年4月16日閲覧。
  2. ^ 埼玉県教育委員会. “埼玉県埋蔵文化財情報公開ページ”. 埼玉県. 2023年4月11日閲覧。
  3. ^ 熊谷市立江南文化財センター. “幡羅官衙遺跡について”. 熊谷市. 2023年4月16日閲覧。
  4. ^ 深谷市文化振興課. “道路”. 深谷市. 2023年4月16日閲覧。
  5. ^ 熊谷市立江南文化財センター. “幡羅官衙遺跡群(西別府祭祀遺跡ほか関連遺跡群)について”. 熊谷市. 2023年4月16日閲覧。
  6. ^ 深谷市文化振興課. “下郷遺跡”. 深谷市. 2023年4月16日閲覧。
  7. ^ 深谷市文化振興課. “ハラ君”. 深谷市. 2023年4月16日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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座標: 北緯36度11分31.9秒 東経139度19分38.9秒 / 北緯36.192194度 東経139.327472度 / 36.192194; 139.327472