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満良親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
常陸親王から転送)
満良親王
続柄 伝・後醍醐天皇第十一皇子

全名 満良(みつよし/みつなが)
称号 花園宮
身位 親王
敬称 殿下
出生 不明
死去 不明
父親 後醍醐天皇
母親 五辻親子
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満良親王[1](みつよししんのう・みつながしんのう、生没年不詳)は、南北朝時代南朝皇族後醍醐天皇の第十一皇子で、母は参議五辻宗親の女・中納言典侍親子であるとされる。花園宮(はなぞののみや)と号し、土佐南軍の統率に当たった。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子名の読みを参照。

経歴

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吉野朝廷時代古戦場址碑
高知県高知市

南朝再建計画の一環として、延元3年/暦応元年(1338年)9月牧宮懐良親王とともに伊勢大湊から出港して土佐に入る。新田綿打入道・金沢左近将監など四国の南軍を従えて、延元5年/暦応3年(1340年)正月大高坂松王丸の救援のため潮江山に布陣し、細川定禅の要請を受けた北軍と交戦するも、遂に敗北して大高坂城は陥落した。興国3年/康永元年(1342年)頃にはほぼ勢力を失って、西国へと落ち延びたらしい。その後の消息は不詳だが、遠江方広寺開山したとされる臨済宗無文元選や、正平6年/観応2年(1351年周防で盛んに令旨を発給している常陸親王(ひたちのしんのう、以下の節で記述)は、花園宮の後身であるとする説がある。

常陸親王

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常陸親王は、正平6年/観応2年(1351年)2月から正平10年/文和4年(1355年)3月にかけて、現在確認されているだけでも37通の令旨(うち30通は正平6年のもの)を発給しており、その宛所は、石見国内田伊藤出雲国諏訪部中沢安芸国熊谷三戸田所周防国横山などの国人武士が占める。令旨の内容には軍勢催促と軍忠安堵恩賞に関わるものが多く、恐らく親王は観応の擾乱に便乗して周防に入り、中国地方における南朝方の挽回を画策したのであろう。

この常陸親王については、『毛利家文書』正平6年7月30日付常陸親王御使交名に、後醍醐天皇4皇子の1人として、「はなそのゝミや、とさよりすハうへ御入ある、/いまハひたちのしんハうと申候也」と記載されているので、土佐から逃れた花園宮と同一人であるように思われる。しかし、花園宮と常陸国との関係が今一つ明白でないことから、先の交名を毛利家による誤認と切り捨て、常陸合戦において北朝方と交戦した興良親王護良親王王子)を常陸親王の候補に考える説も有力である。

脚注

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  1. ^ 同時代史料には「花園宮」と呼ばれているため、はもちろん親王宣下の有無についても本来不詳であるが、一般に流布している人名辞典や系譜類を参照し、仮に満良親王を記事名として採用した。なお、「満良」の諱は近世の吹上本『帝王系図』が初出とされ、また、親王宣下は『南朝編年記略』に延元3年3月のこととある。

参考文献

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  • 秋山英一 『四国に於ける後醍醐天皇の諸皇子』 燧洋出版社、1940年、NCID BA37265629
  • 『高知県史 古代・中世編』 高知県、1971年、NCID BN05408229
  • 新井孝重 「興良・常陸親王考」(『獨協経済』第74号 獨協大学経済学部、2001年9月、NCID AN10392436
  • 森茂暁 『皇子たちの南北朝 ―後醍醐天皇の分身』 中央公論新社〈中公文庫〉、2007年、ISBN 9784122049307
  • 藤井讓治吉岡眞之監修 『天皇皇族実録74』 ゆまに書房、2009年、ISBN 9784843320082

関連項目

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  • 大内弘世 - 正平10年/文和3年(1355年)頃、周防を制圧して長門にまで進出したが、これは満良親王を奉じた戦いだったとする説がある。
  • 石見宮 - 八幡の戦いで戦死した皇族。諱・系譜ともに不詳だが、石見三隅地方の伝承では、満良親王の王子とされる。