布目満造
布目 満造(ぬのめ みつぞう、1868年10月2日(慶応4年8月17日) - 1945年2月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
[編集]和歌山県出身。布目総兵衛の息子として生まれる。攻玉社で学び、1889年(明治22年)4月、海軍兵学校(15期)を卒業、1890年(明治23年)12月に海軍少尉任官。1892年(明治25年)12月から一年間、海軍大学校で丙号学生として学んだ。1894年(明治27年)6月、「武蔵」分隊長心得となり日清戦争に出征。
1899年(明治32年)9月、海軍少佐に昇進。同年12月、「金剛」航海長に就任。以後、兼「比叡」航海長、「出雲」航海長、水路部図誌科科員などを歴任し、1904年(明治37年)1月、仮装巡洋艦「香港丸」航海長となり日露戦争に出征。開戦前後には逓信省の海底ケーブル敷設船「沖縄丸」にも乗船し、朝鮮半島への海底電信線の秘密敷設を監督した。 1905年(明治38年)2月、海軍中佐に進級し、同月「三笠」航海長に就任。日本海海戦に参戦した。
日露戦争後の1905年9月に佐世保鎮守府付となる。以後、「富士」航海長、海軍省出仕、皇族付武官(有栖川宮威仁親王付)、「朝日」副長、「大和」艦長などを務める。1910年(明治43年)12月、海軍大佐に昇進し横須賀鎮守府付となった。
1911年(明治44年)5月、「須磨」艦長に就任。以後、「秋津洲」「橋立」の各艦長、佐世保海軍工廠検査官、「相模」「薩摩」「榛名」の各艦長を歴任。1916年(大正5年)12月、海軍少将に進級し水路部長となる。
1920年(大正9年)10月、大湊要港部司令官に転じ、同年12月、海軍中将に進んだ。1921年(大正10年)12月、将官会議議員に就任。1922年(大正11年)4月に待命となり、1923年(大正12年)3月、予備役編入。1928年(昭和3年)8月、後備役となり、1933年(昭和8年)8月に退役した。
栄典
[編集]- 位階
- 1891年(明治24年)12月14日 - 正八位[1]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 正七位[2]
- 1909年(明治42年)12月27日 - 従五位[3]
- 1915年(大正4年)1月30日 - 正五位[4]
- 1923年(大正12年)4月30日 - 正四位[5]
- 勲章等
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。
関連項目
[編集]- 井上敏夫 - 日露戦争時の香港丸艦長。香港丸南航(1904年12月~1905年1月)の乗組員一覧が付してある。