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巨勢文雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
巨勢文雄
時代 平安時代前期
生誕 天長元年(824年
死没 寛平4年3月5日892年4月5日
官位 従四位下修理大夫
主君 清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇
氏族 味酒巨勢朝臣
大江千古
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巨勢 文雄(こせ の ふみお)は、平安時代前期の貴族・文人。官位従四位下修理大夫

出自

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味酒首は平群氏の一族で、味酒部(酒人部の一種で醸造に従事した部民)の伴造[1]。『日本三代実録』の改姓記事によると、一旦味酒臣の賜姓を受けた後、零落して伊勢国貫付され、のちに姓から姓に改姓して今度は左京に貫付されたという[2]。父の名は不詳だが、が酒泉であったことが知られる[3]

経歴

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大江音人に学び[4]貞観年間初め頃に文章得業生になり、正八位下に叙せられる。貞観2年(860年)6月対策の及第により三階級の加叙を受け従七位上となる。のち大内記に任ぜられる。貞観3年(861年)巨勢河守の奏上により、兄弟とみられる文主・文宗[5]と共に味酒(うまさけ)首姓から巨勢朝臣姓に改賜姓される。なおこの改姓の理由について、文雄は以下を述べている[2]

  • というものは儀礼において重要であるが、度を過ぎることを強く戒めるべきものである。しかし、現在のは酒を首(第一)とするとしているため、常々改姓したいと考えており、甚だしく家が衰えていることを兄弟で深く憂いている。
  • 家系によると本来は平群姓を与えられるべき。しかし、平群の字義(平凡な群れ)は凡であるところ、巨勢は字義が優れており、また平群と巨勢は兄弟であり他人ではないことから、巨勢姓を賜与されても問題ない。

貞観5年(863年従五位下叙爵。のち、清和朝では民部少輔文章博士次侍従大学頭などを歴任する。特に橘広相が離任した貞観11年(869年[6]から都良香が新たに補任される貞観17年(875年[7]までの6年間は、文雄が単独で文章博士を務めている。なお、文章博士の官職にあった際の事績として以下のようなものがある。

  • 貞観10年(868年)に野火による田邑山陵兆域の樹木焼失への対応について議論が行われた際、文雄は前漢代に宗廟で火災が発生した場合に皇帝素服を着用したという『漢書』における故実[8]を指摘し、その意見が採用されている[9]
  • 貞観13年(871年太皇太后藤原順子の葬儀に際して、天皇が祖母である太皇太后のに服すべき期間について疑義が生じて決定できなかったために議論が行われた際、の故実に基づけば本来5ヶ月の喪に服すべきところであるが、唐典と本朝の令が同じく3日間喪に服すこととなっておりこれを用いるべき事を奏した(この時の位階は従五位上)[10]
  • 貞観13年(871年)応天門の変による焼亡から修復した応天門の改名の是非、および応天門・朱雀門羅城門の名称の由来について、明経博士・文章博士らに議論が命じられた際、文雄は・唐において火災を理由に宮殿や城門を改称した故実を挙げ、天災と人災は共に国家の吉兆ではないことから、修復の後に改称することは妥当であること、また「応天」の名称は『礼緯含文嘉』にある「陽は人心に順い天に応ず」に因み、「朱雀」の名称については、唐の大明宮南面の門を「丹鳳門」というが「丹鳳」と「朱雀」は同義であることから、南方の門であることに因み、「羅城」の由来は明らかでないが、文勢を踏まえると羅列の意味と想定されることを述べた[11]
  • 貞観14年(872年)文章得業生・藤原佐世と共に鴻臚館において、渤海使に対する饗応を務めた[12]
  • 貞観14年(872年)から貞観19年(877年)迄の間、大学寮にて『後漢書』の講義を行った。講義では掌を打って談じ、聴講者の耳に口を近づけて厭うことなく教え、先の儒者の墨守を断って、後学の徒を啓蒙した[13]
  • 貞観18年(876年大極殿が火災に遭った際、廃朝及び群臣が政に従うことの是非について、明経・紀伝博士らが問われた際、中国の諸朝において宮殿火災での変服・廃朝の例はないが、春秋戦国時代諸侯では火災に対して変服・致哭の例があることから、両者を折衷して廃朝のみ実施し、天皇・群臣は平常の服を変えるべきでないことを奏し、採用された[14]

陽成朝に入り、貞観19年(877年)に左少弁、元慶5年(881年)右中弁と弁官を歴任する一方で大学頭なども兼ね、元慶3年(879年)には正五位下に叙せられている。また、同年最後の畿内班田が行われたが、班田に対する妨害対策のために山城国に派遣されている[15]

元慶8年(884年光孝天皇即位後まもなく従四位下・越前守に叙任され、仁和2年(886年)頃まで任国に赴任する[16]。越前国は渤海使が到着することが多いために、国司として儒者が多く任ぜられ[17]「詩国」とも呼ばれるが[18]、文雄の任官前後で越前国司に任ぜられた儒者は遙任が多く[19]、弁官から地方官への転任を左遷と見る向きもある[20][21]。なお、同時期に讃岐守として任国に赴任していた菅原道真が文雄に関して作成した漢詩2作品が残っている[22]

越前守の任期を終えて帰京後しばらく散位となる。寛平2年(890年式部省の文人簿に掲載されていなかったが、菅原道真・安倍興行と共に勅により特別に重陽宴に参加が許されている[23]。寛平4年(892年)3月5日卒去享年69。最終官位修理大夫勘解由長官従四位下。

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

逸話

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弟子の三善清行方略試を受ける際、文雄は推薦文を書き「清行の才名、時輩に超越す」と記したが、菅原道真はそれを嘲って、「超越」を「愚魯」に書き換えたという。結局清行は不合格となった。[26]

脚注

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  1. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年、735-736頁
  2. ^ a b 『日本三代実録』貞観3年9月26日条
  3. ^ 醍醐寺本『水言抄』目録
  4. ^ 扶桑略記』貞観19年11月3日条
  5. ^ 滝川[2009: 40]
  6. ^ 『日本三代実録』貞観11年2月1日条
  7. ^ 『日本三代実録』貞観17年2月27日条
  8. ^ 『漢書』武帝紀,昭帝紀
  9. ^ 『日本三代実録』貞観10年2月25日条
  10. ^ 『日本三代実録』貞観13年10月5日条
  11. ^ 『日本三代実録』貞観13年10月21日条
  12. ^ 『日本三代実録』貞観14年5月23日条
  13. ^ a b 紀長谷雄「後漢書竟宴各詠史得龐公」『本朝文粋』巻9-262
  14. ^ 『日本三代実録』貞観18年4月10日条
  15. ^ 『日本三代実録』元慶3年12月21日条
  16. ^ 滝川[2009: 56]
  17. ^ 『除目抄』
  18. ^ 大江匡衡「餞越州刺史赴任」『江吏部集』巻中
  19. ^ 滝川[2009: 57]
  20. ^ 彌永貞三「仁和二年の内宴」『日本古代の政治と資料』高科書店、1962年
  21. ^ 川口久雄『日本古典文学大系 菅家文草 菅家後集』岩波書店、1966年、198詩補注
  22. ^ 菅家文草』巻3-198,巻4-263
  23. ^ 『撰集秘記』9月9日所引『清涼記』書入
  24. ^ 滝川[2009: 52]
  25. ^ 日本紀略』寛平4年3月5日条
  26. ^ 江談抄』巻5-44

参考文献

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